海を見よ
この頃は、残念ながら、すっかり心の感度が鈍ってしまって、日々を惰性で生きていることを反省します。
それでもこうして毎日下らぬ文章を書いていて、読んで下さる方もいらっしゃるので、せめて何か心に響くものはないかと、注意して、新聞を読んだり、本を読んだりしています。
四月六日の毎日新聞に、
「時に海を見よ 教師の思い 集大成」という大きな見出しの記事があって、読みました。
久しぶりに、心が震えました。
東日本大震災が起きた2011年春、立教新座中学・高校(埼玉県)の校長だった渡辺憲司さん(76)が卒業生に送ったメッセージの題が、「時に海を見よ」なのです。
震災の影響で高校の卒業式が中止となったそうなのです。
そこで校長だった渡辺先生が、式辞に代えて卒業生に贈る言葉として、学校のウェブサイトに公開されたのでした。
以下、新聞の記事に掲載されていた一部を紹介します。
「これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。
しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたい」
と前置きした上で、生徒たちになぜ大学に行くのかを問う。
学問、友人作り、遊び……。そのいずれも正しい答えではないとして、こう語りかける。
「大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。」
高校までの時期にも、社会に出てからも得られない、自分で時間を管理できる自由があるのが大学時代だという。そこで何をすべきなのか。
「時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。
自分の夢が何であるか。海に向かって問え。
青春とは、孤独を直視することなのだ。」
「流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。
いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。」
という実に力強い言葉なのです。
そして、更に渡辺先生は続けます。
「忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。」と。
「時に海を見よ」、実に力強いメッセージです。感動しました。
震災のあとに、こういう言葉を発することのできる先生というのは素晴らしい方だと思いました。
この渡辺先生が、これまで発信してきた言葉を一冊の書籍「生きるために本当に大切なこと」(角川文庫)にまとめたというので、早速取り寄せて読んでいます。
海を見よというと、私も子供の頃を思い起こしました。
生まれた家は、熊野川のすぐそばでしたので、川は毎日のように見ていました。
海も自転車で行けるところでありましたので、「時に海を」見たものでした。
ただ、ただ広い、どこまでの広い海を見ていたのでした。
そして波打ち際にたたずんでいると、打ち寄せる波が、呼吸のリズムとひとつになるのを感じたのでした。
寄せる波は、ずっと長く続いてだんだん細くなっていって、引く波に転じます。
吐く息がずっと続いていって、だんだん細くなって、吸う息に転じるのと同じように感じて、波に合わせて呼吸したりしていました。
私が呼吸を習ったのは、海からでした。
詩人の坂村真民先生もまた海を愛していました。
海を見よ
しんみんよ
海を見よ
お前の好きな
海を見よ
そしたら一切受容ということが
よくわかるだろう
宇宙の実体がわからないなら
海を見よ
そしたらその本義がわかるだろう
仏陀の慈悲がわからないなら
海を見よ
海がそれを知らせてくれるだろう
海
わたしが帰ってゆくのは
海である
海から生まれたから
海に帰ってゆくのである
海はわたしの母である
海
海はいつも
動いている
だから
魚たちも
生き生き
泳いでいる
動いているものは
すべて美しい
わたしが
海を見に行くのも
そのためだ
海は
生命の根源
という詩を残されています。
また坂村真民先生には華厳経を詩で訳された『念ずれば花ひらく経』という冊子があります。
その中に
「海は仏のいのちの現れなのだ
だから海を見に行くがよい
大智の海
平等の海
無礙の海
無辺の海
無量の海
不生の海
不滅の海
ああ
あのくたらさんみゃくさんぼだいの
広大な功徳を知るために
海を見に行くがよい」とも詠っています。
時に海を見ると、海は私たちに多くのことを語りかけてくれるのです。
取り寄せて読んでいる渡辺先生の『生きるために本当に大切なこと』の中に、震災から一年後の文章が載っていて考えさせられました。
引用してみます。
「私たちは、自然に対して僭越に、傲慢に過ぎたのではないか。
自然からの手荒い報復にこうべを垂れ、その恵みを懇願し、自然に従い、寄り添うことが要求されているのだ。
一年前、卒業式を挙行することの出来なかった時、私は本校のホームページで、「時に海を見よ」と題し、大学に行き、海を見つめる自由の中で孤独を直視せよと語った。
その思いに変わりはないが、今の私は、この一年の短さと長さに翻弄され、時間に性急になっているのかもしれない。
「海を感じよ」という声が聞こえてならない。
海を感知し、触知し、海に従い、自然に寄り添わねばならない。
波に抱かれ、海藻とたわむれ、波頭をまっすぐに見つめ、その鼻で潮の匂いをかぎ、海の音に耳をそばだて、海の闇を感じ、そして日の出を直視せよ。
五感を震わせて海を感じるのだ。その時、敗北の意味が、問われるはずだ。
次の時代へ、今の海を語り継がねばならない。
これは責務だ。
多くの人と出会い、身が細るほど相手の身になって物事を考える。他人と不幸を分かち合う。そんな人間になって欲しい。
今、悲劇は一部に集中している。
分かち合うことが必要とされているのだ。
自然と歩む新たな理念が若い君たちの中から創出されるはずだ。理想の社会が、きっと見えて来るはずだ。」
というのです。
「私たちは、自然に対して僭越に、傲慢に過ぎたのではないか。」という一文は胸に刺さります。
今のコロナ禍にも思い当たる気がします。
そして、今もやはり「多くの人と出会い、身が細るほど相手の身になって物事を考える。他人と不幸を分かち合う」ことが大切だと思うのです。
時に海を見ましょう。
横田南嶺