人皆仏心あり
懸賞作文「小さな助け合いの物語賞」と書かれています。
山口県の高校教師をなさっていた方の文章であります。
スーパーで買い物をしていて、具合が悪そうにしゃがみ込んでいるおばあちゃんに声をかけたということから、二十年前のことを思い出したというのです。
それが、その先生が勤務していた高校での話です。
その高校に一人のおばあさんが訪ねてきました。
その学校の生徒に、助けてもらったというのです。
横断歩道で気分が悪くなり、しゃがみ込んでいると、周囲は知らん顔して通り過ぎる中、一人の高校生が声をかけてくれたのでした。
「おばあちゃん、だいじょうぶ」と。
そのあとおばあさんをおんぶして、二時間もかけて家まで送ってくれたというのです。
おばあさんが名前を聞くと、「名乗るほどの者ではない」といって去っていったのでした。
制服でどこの学校か分かったので、訪ねてきたのでした。
そこで、学校は千人を超える生徒の写真を一人ずつおばあさんに確認してもらいました。
そして、ついに判明しました。
ところが、ほとんどの先生が「まさか」と声をあげました。
「何かの間違いでは」という声も聞かれました。
その生徒は、記事には「バリバリのヤンキーであり、先生方も日頃から手を焼いていた」というのです。
「顔がたまたま瓜二つでは」という憶測まで飛んだとか。
しかし、本人に間違いありませんでした。
そして、その生徒は、その先生が担任していたのでした。
先生も驚かれました。
その二週間ほど前に、クラスのホームルームで、今月の目標を話し合っていて、その月は、「助け合いをしよう」に決まったのでした。
その時、いつもほとんど寝ている件の生徒が、突然立ち上がり「くだらねえ」と言いました。
先生が、「何がくだらないのか」と聞くと、憮然として表情で教室から飛び出してしまったのでした。
そんな生徒が、横断歩道で、おばあさんの手助けをしたというのですから、信じられないというのももっともでしょう。
生徒は、警察から感謝状を受け取りました。
先生は、その生徒に、助け合いをくだらないと言ったのに、どうして人助けをしたのかと聞いてみました。
生徒は答えました。
「助け合うといった行為は目標とか、決められたからやるんじゃんくて、自ずから、自然にやることだよ、当たり前のことなんだよ。だからくだらねえと言ったんだ」と。
いい話で感動しました。
そして、人を見た目や、思い込みで判断してはいけないとも思い知らされます。
この生徒の言葉には真実があります。
助け合うというのは、目標でもなく、決められたからやるのでもなく、
「自ずから、自然にやること、当たり前のこと」、まさにその通りであります。
惻隠(そくいん)の情という言葉があります。
「人をいたわしく思う心。あわれみの気持」です。
『孟子』に
「人皆な人に忍びざるの心有りと謂う所以は、今、人乍(にわか)に孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆な怵惕(じゅつえき)惻隠の心有り。」
という言葉があります。
「忍びざるの心」というのは、人の難儀を見過ごしにできない心のことです。
人には、誰しも人の難儀を見過ごしにできない心があります。
なぜかというと、かりに突然幼児が井戸に落ちようとするのをみれば、誰でもはっと驚き深く哀れむ心持ちが起こって助けようとするのです。
孟子は、それは、子供を救ったのを手づるに、その両親に交際をもとめようとするからでもなく、村人や友人にほめてもらおうとするからでもなく、見殺しにしたら悪口を言われて困るというので救うのではないと言います。
利害得失を考えてするのではなく、とっさに自然とそうするのだというのです。
こういう心が仏心であります。
経典にも「仏心は大慈悲なり」と説かれています。
「慈」は、人になにかをしてあげたいと思う気持ちであり、「悲」は人の苦しみを我がことのように思う心であります。
「仏心は不生」でありますから、決して努力して作り出すものではありません。
目標にしようというものではないのです。
わざとこしらえるものではありません。
造作するのではないのです。
この高校生の言葉のように、「自ずから自然と、あたりまえ」なのです。
誰しもこの心を持っているのであります。
それなのに、私たちは、つい見た目などを気にしてしまい、色眼鏡を人を見てしまうのです。
人は皆仏心を持っているのです。
盤珪禅師がくり返し説かれたように、親に産みつけてもらったのは仏心ひとつなのです。
この仏心に目覚めることこそ、禅の教えの眼目なのです。
組合新聞の記事には、その生徒はその後老人福祉施設のヘルパーをしているらしいと書かれていました。
ホッとするお話であります。
本来具わっている仏心に目覚め、仏心を発露して、お互いに思いやる心で暮らすことが禅の修行にほかなりません。
横田南嶺