非暴力
かの有名な「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉を残したクラーク博士の逸話であります。
クラーク博士は、他のすべての校則を廃止して「紳士であれ」のみとしたというのであります。
このことを、昨日紹介した渡辺憲司先生の『生きるために本当に大切なこと』に載っていました。
渡辺先生もこのことについて、いたく感動し、共感していると書かれています。
渡辺先生ご自身、「君たちに、紳士であって欲しいと願っている」のであります。
「私が考える「紳士」とは、表面的、感覚的なものではない。生き方の問題だ。」と渡辺先生はいうのです。
これは、私自身に置き換えてみると、仏教の様々な戒や規則の条項などよりも、「仏弟子であれ」の一言ですむはずだと思うのであります。
「仏弟子である」という自覚さえはっきりしていれば、問題はなくなるはずなのです。
クラーク博士の言葉を受けて、渡辺先生は、
「紳士たることの第一条件は、「非暴力」である。」と説かれています。
そして、「私は、いかなる理由があっても、暴力を禁じる。暴力のいかなる正当性も認めない。
それは、ガンジーの無抵抗・非暴力の思想にもつながる厳しいものでなくてはならない。
愛の鞭などと言って、暴力を是認する人がいる。
父が子に、母が子に、躾だと言って、暴力を振るう。
先輩が後輩に対して、訓練などと言って、暴力を振るう。
教育の一環だと言って、生徒に暴力を振るう教師がいる。
体罰など言語道断である。
私はそれらの一切を認めない。暴力的行為には、厳罰を処すべきである。」
というお考えであります。
これは、元来の仏教の基本的立場でありました。
花園大学の佐々木閑先生に確認してもブッダの教団は、一切の暴力行為を認めないものでありました。
この言葉のあとに、渡辺先生は、興味深い話を引用されています。
アメリカからペルリ提督一行がやってきて驚いたのは、町で、日本の少年少女がのびやかに生活していることだっというのです。
路上でも大声をあげて騒ぎ、走り回る子供もいるのを見て、ペルリはアメリカでは鞭をもって制すると言ったのだそうです。
それを聞いた日本人は、鞭とは馬に使うもので、人間に使うものではないと怪訝な顔をしたというのです。
この話を用いて、渡辺先生は、
「日本の文化の伝統には、非暴力の思想があった。
それが崩れたのは、近代化に名を借りた軍国主義によってである。」
と説かれています。
さて、一概にそう言い切ってしまっていいのか疑問は残りますが、考えさせられる話であります。
「新渡戸稲造は、誠の武士道とは、剣を抜かずして相手を倒すことだと言った」とも書かれています。
そして渡辺先生が、立教大学の野球部長だった頃、
「合宿でいわゆるケツバットでコーチが選手を叱咤した話を皆でおもしろおかしく聞いていた。
その時、かつてプロ野球で活躍した先輩が突然、激怒した。
バットは選手の命である。それを使うとは何事か、と言うのである。
道具をもって、相手を殴打するなどはもってのほかである。卑怯者のすることである」というのです。
渡辺先生は「規律に暴力を使うのは、紳士として恥ずべきことである」と断言されています。
そして暴力というのは、身体的動作のみではなく、言葉による暴力にも言及されています。
「悲しい思いをしている者や、弱い者に向かって浴びせる罵詈雑言は、決して許されるものではない。
それが、集団でなされるなどといったことは、あってはならない行為である。
ネット上の心ない書き込みも暴力である。
相手のいやがることを黒板に書いたり、手紙に書いたりする。それも暴力である。」というのです。
これも、紳士を仏弟子に置き換えても同じことであります。
佐々木先生から本来のブッダの教団のありようを学んでいると、「非暴力」を貫くことであります。
規律を守るためにはやむを得ないという理論は通りません。
何か事件が起きて、世間から批判されて、そこでようやく右往左往するのでは手遅れです。
そこで、私は修行の世界にあって「仏弟子であれ」の一言で臨みたいのであります。
渡辺先生は、この一章の最後に、
「自分がきちんと身を正せば校則など要らない。
校則よりも大切なのは、自分がいかに身を正すかだ、とクラーク博士は言いたかったのではないか。
少なくとも私はそう理解している。
身を正すとは、自分が信じている道を進むこと。自分の心への誠実さを持て。
周囲の外見的な規則や虚飾や虚勢を削ぎ落とし、自信を持ってシンプルに生きろ。
それが、「紳士である」ということなのだ。厳しさと優しさが共存しているのが紳士の道である。
優しさを守るためには厳しさがなければならない。
諸君、誇り高く、毅然として、胸を張れ。
正義の心を持て。弱き者を守り通す人であれ。」
と結んでいます。
私どもの道場でも、この頃は布薩も行い、礼拝の行を大切にしています。
ことに毎日の三拝、礼拝を丁寧に、ブッダが目の前にいます気持ちで行うように努めています。
そういう礼拝行を通して、「仏弟子である」「お釈迦様の弟子である」自覚があれば、細かな規則や、規律を守るための強制も必要ないのではないかと思っているのであります。
横田南嶺