すべては燃えている
その時に、五人の弟子が出来ました。
もともとお釈迦様と共に苦行していた五人の修行者に、教えを説いたのでした。
お釈迦様と五人のお弟子から、仏教教団は始まりました。
それから、だんだんとお弟子達が増えてきました。
ウルヴェーラーでは、更に多くの弟子を得ました。
そんな新しい修行僧たちを従えて、お釈迦様は、マガダ国の都王舍城に向かって旅をしていました。
その出発にあたって、お釈迦様は弟子達を連れてガヤーシーサ(象頭山)に登りました。
山上に立ったお釈迦様は、そこで説法をされました。
「比丘たちよ、すべては燃えている。
熾然として燃えさかっている。
そのことを、なんじらはまず知らねばならない。」
と仰せになりました。
常に理路整然とお説法をなさっていた普段のお釈迦様とは、趣を異にする説法でした。
「比丘たちよ、すべては燃えているというのは、いかなる意味であろうか。
比丘たちよ、人々の眼は燃えているではないか。
その対象にむかって燃えているではないか。
人々の耳は燃えているではないか。
人々の鼻も燃えているではないか。
舌も燃えているではないか。
身体も燃えているではないか。
心もまた燃えているではないか。
すべて、その対象にむかって、熾然として燃えているのだ。
比丘たちよ、それらは、何によって燃えているか。
それは、貪欲の炎に燃え、瞋恚の炎に燃え、愚癡の炎に燃えているのだ。」
そのように説かれたのでした。
目でものを見ては、心地よいと思えば貪りの炎に燃えてしまいます。
心地よくないと、怒りの炎に燃えてしまうのです。
耳も同じです、心地よいことを聞くと、貪りの炎に燃えてしまいます。
不愉快だと、怒りの炎に燃えてしまうのです。
味覚でも触覚でも同じことであります。
これは二千五百年も昔のお説法であります。
今の時代はもっと、目を刺激するもの、耳を刺激するもの、味覚を刺激するもので満ちあふれています。
その刺激を求めては、他を傷つけたり、自らを傷つけたり、或いはお互いを傷つけあったりしています。
また地球環境を傷めているということもありましょう。
これら苦しみの原因は、お互いの貪欲と瞋恚と愚癡であるというのが、お釈迦様の教えの根本であります。
貪欲とは、自分さえよければいいというわがままな欲望であります。
瞋恚とは、いつもイライラして、他人を差別し批判する心です。これがどれほど他人を傷つけることでしょうか。
愚痴は、思慮不足です。正しい状況を知ろうとしない心です。
これが、疑心暗鬼になったり、右往左往したり、不確かな情報に振り回されることになってしまいます。
目でものを見、耳で聞き、舌で味わい、そこに貪欲、瞋恚、愚癡の炎が燃えるのであります。
燃え盛っているのをみれば、何とか消さなければと思うものです。
のんびり眺めているわけにはゆきません。
一番深刻なのは、燃えているのに、そのことに気がついていないという状態でありましょう。
毎朝、新聞を開いて読んでいて、ふとこのようなお釈迦様のお説法の言葉を思い出して、仏典を紐解いていたのでした。
この燃え盛る炎を何とか消さなければと、お釈迦様は八十年のご生涯教えを説き続けられたのでした。
お釈迦様のお慈悲の心であります。
このお釈迦様のお説法は、イエスの「山上の垂訓」になぞらえて、仏陀の「山上の説法」とも呼ばれるものです。
今の世にあっても、この炎を消すのは、慈悲の心のみであります。
横田南嶺