愛別離苦
悲しい話であります。
生涯消えることのない悲しみであり、苦しみでありましょう。
ちょうど、その頃、私は、『池上彰と考える 「死」とは何だろう 』(角川書店)という本を読んでいました。
その中に、池上彰さんと釈徹宗さんの対談が掲載されていました。
いろんな方の質問にお二人が答えるというものです。
ある交通事故で、友人を亡くしたという方からの質問がありました。
その亡くなった方というは、いつもは通らなかった道をたまたま通った際、前方不注意の車にはねられたというのです。
友人の方は「なぜその日に限って、その道を」
「もし、その道を通らなかったら」という思いが、亡くなってから一年が経過したいまも消えないというのです。
「運が悪かった、の一言で片づけたくありません」という女性の大学生の方の相談です。
それに対して、釈徹宗さんは、
運というのは、何かが起こったときに、後から運がよかった、悪かったと後付けするものなので、大事なのは、起きた事態をどう引き受けるかだと説かれています。
そして、
「仏教の考えでは、生きるということは、そもそも不条理です。
理屈どおりにいかない、納得いかないことが起こるわけです。
納得いかないというのは、要するに思いどおりになっていないということなんです。
……仏教は生きるということは思いどおりにならないということ、それが本質なんだ、と説きます。
それが人生の本当の姿なんです。その上で、悲しい事故を受け、君がどう生きるかが大切なんです。」
と説いてくださっています。
対して、池上さんは、キリスト教の立場から、亡くなったのは、「神から愛されたんだ」と説かれています。
この本の中には、キリスト教の葬儀では、「お悔やみ申し上げます」とは言わないことも書かれています。
キリスト教徒にとって、死は「神のもとへ行くこと」で、悲しむことではなく、祝福されることだというのです。
池上さんは、
「神から愛された人ほど、早く神様が呼び寄せるんだ」と説かれています。
そして、
「私の知り合いが、生まれたばかりの赤ちゃんを亡くしたんです。
そのときに、そう言って慰めました。
本当に神様から愛されて、この世に生まれさせたんだけど、早く自分の手元に呼びたいと思って、召されたんだよ、と。
後になって、「それが救いとなりました」と言ってもらえて、こちらも少し救われた気になりました。
だからあえて同じ言葉を贈らせていただきます。」
というのです。
なかなか、そう言われてもよほどの信仰がないと、受け入れられないような気もします。
こういう問題は、よくあることですが、どう受けとめるかは難しいものです。
また、こうして文章にしてしまうと、伝わりにくいのですが、面と向かって、心を込めて、真摯に向き合って言葉を掛けると、伝わり方も変わってきます。
そんな本を読んでいて、十数年前に私の知人で、考えられないような事故で亡くなった方がいた事を思い出しました。
その方がまた、実に良い人で、多くの人から慕われていたのでした。
なぜあんな良い人が、あんな目に遭うのか、故人とご縁のある人は皆一様にそう思いました。
まして況んや、ご遺族の悲しみは察するにあまりあります。
私もなんとお慰めしてよいのやら、言葉も見つからずに困惑しました。
そして、当時管長をお勤めであった足立大進老師に、事情をお話しして、ご遺族に何かお言葉をお願いしますと、色紙に揮毫を頼みました。
足立老師は、しばし沈思黙考して末に、丁寧に墨をすって、心を込めて、
「倶に遊ぶ、仏心光明の中」
と書いて下さいました。
やはりこれしかないなと小声で仰せになりました。
この言葉は、お亡くなりになった方のところには、いつも書いてお供えしていたものです。
特別のことはない、やはり、お亡くなりになっても、倶に仏心の光の中で遊んでいるのだということです。
この時にも、お言葉もさることながら、丁寧にお書きくださったそのお姿が心に残っています。
そんな思いのこもった文字がまたご遺族に何か伝わるものがあると思いました。
池上さんのキリストの教えにしても、この世の非業な死だけをすべてと見るのではなく、神さまに愛されているというように視座を変えることが大切なのだと思います。
釈徹宗さんの仏教の教理にしても、この世の非業な死だけを見るのではなく、この世の真理に目を向けてみることであり、これも視座を変えるのであります。
「倶に遊ぶ、仏心光明の中」という言葉にしても、この世の死だけを見るのではなく、私たちを包んでいてくれる「仏心の光明」に目を向けてみることなのです。
そんなことが伝わるのは、やはりその言葉を語る人の熱く深い思いであり、丁寧に文字を書く人の心なのでありましょう。
「愛別離苦」、いつの世にもなくなることのない、悲しい事実であります。
横田南嶺