帰ったら うがい 手洗い……
帰ったら、うがい手洗いという習慣は、私などもすっかり身についています。
お手洗いにいっても、しっかり手を洗うようにしています。
以前はササッと水ですすぐ程度だったのが、この頃は石鹸をつけてしっかり洗うのです。
こういううがいや手洗いなど、なんでもないことなのですが、マスクをすることと、うがい手洗い、手指消毒というのは、今の感染症対策の基本であります。
昨年、どなたかの川柳に、
一年で一生分の手を洗い
というのがありました。
なるほど、私もそれくらい手を洗ったかなと思います。
それまでは、長年修行道場というところで暮らしていますので、少々の菌などには気にせずに暮らしてきました。
むしろ少々の菌くらいは、取り入れた方がいいというくらいに思っていたのでした。
それが、すっかり、うがい手洗いの習慣が付いてしまったのです。
この「帰ったらうがい手洗い……」という言葉はお寺の門のところに書かれていたものです。
この「帰ったらうがい手洗い」の後に続く言葉は、「お念仏」です。
これは、花園大学の入学式に出て、帰りに、とあるお寺の前を通った時に、そのお寺の掲示板に書かれていた言葉でした。
浄土宗か、浄土真宗なのか、お念仏を唱えるお宗旨なのでしょう。
語呂がいいなというのと、お念仏というのが、実に「うがい、手洗い」と同じように日常の中に溶け込んでいる感じがいいなと思って、その場でメモに取ったのでした。
外から帰ったら、まずうがいして手洗いして、それからお念仏するということなのです。
お念仏というのはそれくらい、日常に溶け込みやすいのだと思います。
改めて、威儀を正して行うというよりも、うがいしたり、手洗いしたりするように、お念仏するというのが、何とも言えぬ親しみ易さを感じます。
これがお念仏の素晴らしさでありましょう。
坐禅も誰でもできますものの、そこまで気軽ではありません。
やはり、時間と場所を選ぶものであります。
それに比べると、お念仏は、それこそいつでもどこでもできるものあります。
それだから、鎌倉時代に法然上人、親鸞聖人、一遍上人、それから蓮如上人らによって、多くの方々に弘まっていったのでしょう。
たしか、お念仏の教えに、毎日の暮らしをしながら念仏するのではなくて、お念仏しながら毎日の暮らしを行うのだということを聞いた覚えがあります。
うがい手洗いしながら、お念仏するのではなく、お念仏しながら、うがい手洗いをするということなのだと思いました。
これが大事なところだと思います。
坐禅の公案工夫にも通じるところであります。
公案の工夫というのは、中国の祖師の言葉を問題として抱えて、ずっと心に懐いて問い続ける修行です。
たとえば、趙州和尚の「無」の一字を工夫します。
趙州和尚の言った「無」とは何かと工夫するのです。
「無」とは何か、理論や理屈で答えても、そんなものはすぐに尽きてしまいます。
毎日毎日老師のところに禅問答に挑んで、自分なりの答えを持ってゆくのですが、全てを否定されてしまいます。
理論も理屈もなくなると、ただ「むー」というのみになります。
そうしますと、何をしていても「むー」と成りきってゆくのであります。
これも、坐禅している時は、呼吸に合わせて「むー」と集中します。
坐禅からたちあがって歩く時も、一歩一歩「むー」と成りきって歩くのです。
手洗いにいっても、「むー」、お茶を飲んでいても「むー」と工夫します。
そうしますと、何かをしながら「むー」というのではなくて、「むー」の中で日常の暮らしをするのであります。
天地いっぱいに満ちる「むー」の中で、ご飯を食べたり、掃除をしたり、手洗いしたり、坐禅をするのです。
こういう工夫を続けるうちに、ただ「むー」のみがあって、そこに我は見当たらないという状態になってゆくのであります。
そこを強いて言葉でいえば「無分別」なのです。
そこは、マインドフルネスでも同じだと思います。
はじめは一つ一つの動きや感覚などに気づきを向けるのであります。
そうして一つ一つに気づいていくうちに、気づきの中に、動きがあり、気づきのなかに感覚があるというように転換するのであります。
そうしていくと、朝比奈宗源老師が仰ったように、
「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」
ということが頷けるのであります。
お念仏のなかに、毎日の暮らしがあるのです。
「むー」という中に、毎日の暮らしがあるのです。
気づきの中に、毎日の暮らしがあるのです。
この自分が死んでどうなるかという問題が解決して答えが見つかるというのではなく、その問題を抱えている我が無くなるのです。
一遍上人が詠われたように、
唱うれば仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
という世界が開けるのであります。
うがい手洗い念仏していくと、そういう世界が開かれて、安心になるのであります。
横田南嶺