戒語と愛語
愚者は、悪口を言って、その斧によって自分を切り裂くのである。
これは、仏陀の言葉です。
最古の仏典と言われる『スッタニパータ』にある一節です。
みずから出した言葉が、自らを苦しめるのです。
それは、あたかも風に逆らって土をまくようなものだとも説かれています。
まいた土は、すべて自分にかかってしまい、結局は自身を汚すだけなのです。
お釈迦様は、
「自分を苦しめず、また他の人を害しないことばのみを語れ、これこそ、実に善く説かれたことばなのである」
ともお示しであります。
身体の行為と言葉と心との三つを調えることが仏教の修行の基本です。
三つの中でも言葉についての戒めが最も多いのです。
それほどまでに言葉には気を使わねばなりません。
そのことをはっきり示しているのが、「十善戒」であります。
いつも私どもが毎月二回の布薩で唱えているのが、
第一不殺生(ふせっしょう) すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て
第二不偸盗(ふちゅうとう) 人のものを奪わず、壊さず
第三不邪婬(ふじゃいん) すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく
第四不妄語(ふもうご) 偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく
第五不綺語(ふきご) 誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさず
第六不悪口(ふあっく) 人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことなく
第七不両舌(ふりょうぜつ) 筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さず
第八不慳貪(ふけんどん) 仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらず
第九不瞋恚(ふしんに) 不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにせず
第十不邪見(ふじゃけん) すべては変化する理を知り心を正しく調えん
の十の項目であります。
最初の三つが身体の行為についてです。
それから次の四つが、言葉に関するものです。
終わりの三つが心に関するものです。
言葉についてが、多くなっているのです。
良寛さんには、「戒語」という、言葉の戒めについて書かれたものが残っています。
何種類もあるのですが、長いのですと、九十項目にものぼっています。
それほどまでに言葉について戒められたのかと思うと、自身を反省します。
いくつか、気になるものを挙げておきます。
口数が多いこと。
話の内容や言い方がはらはらすること。
何かにつけてすぐしゃべること。
話の長いこと。
人が尋ねないのに自分から話しだすこと。
物事をよく知っているかのようにこまごまと長く話すこと。
わきからの口出し。
自分のりっぱさを誇る話。
訴訟や裁判の話。
幕府や役所の処置についてあれこれ言うこと。
憎まれ口、負け惜しみ。
他の人が話し終わらぬうちに話をする。
軽々しく約束する。
よく理解していないことを人に教える。
おおげさに話す。
相手の機嫌をとること。
人の話を途中でさえぎる。
相手の顔をじっと見て話す。
自分の家柄や育ちのよいのを人に話す。
推量や想像で判断したことを事実のことのようにして言う。
言い損ないや聞きまちがいを取り上げて非難すること。
物ごとをよく知っているかのように言う。
僧侶が教えを説くことのじょうずへた。
老人の歎きごとのくり返し。
若い者の何の役にも立たない話。
身ぶりや手つきを入れた話。
好んで漢語を使う、好んで外国語を使う。
聞いて知っただけのことを事実のように言う話。
人に合うように都合よくとりつくろって言う。
人に物をあげる前に何々をあげようという。
人に物をあげた後でそのことを話す。
おれがこうしたこれがこうしたとたびたび言う
などなど、たくさん九十もあるのです。
原文を訳して書きましたが、この訳は『良寛の愛語・戒語』(谷川敏朗著 考古堂刊)に依っています。
愛語についても良寛さんが教えてくださっています。
「愛語」とは「相手をやさしく思いやることば」です。
こちらも谷川敏朗先生の現代語訳を参照させていただきます。
「やさしく思いやることばとは、まず人々に対しいつくしみや情け深い気持ちを持ち、目をかけ思いやりのことばを用いることです。
決して、荒々しいことばを用いてはいけません。」
というものです。
更に言葉は続くのですが、終わりには、
「やさしく思いやることばは、いつくしみ思いやる心から生まれてきます。
いつくしみ思いやる心は、いたわる心をもととします。
やさしく思いやることばに、世の中を変える大きな力があることを知るべきです。」となっています。
原文は、
「しるべし愛語は愛心よりおこる。
愛心は慈心を種子とせり。
愛語よく廻天の力あることを学すべきなり。」
というものです。
今は、言葉が氾濫しているのかもしれません。
言葉によって傷つく人がどれほど多いか考えると、たいへんな数でしょう。
言葉を慎み、いつくしみ思いやる心で言葉を用いるように心したいものです。
横田南嶺