怨みなき
「かれはわれを罵った。かれはわれを害した。かれはわれにうち勝った。かれはわれから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。(中村元訳)
とあり、
同じ第四番には、
「かれはわれを罵った。かれはわれを害した。かれはわれにうち勝った。かれはわれから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。(中村元 訳)
とあります。
更に第五番に、
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。(中村元 訳)
と説かれています。
ことに第五番の言葉は広く知られています。
スリランカのジャヤワルダナ氏は、1951年9月6日、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席し、この『法句経』の一節を引用して、セイロン(現:スリランカ民主社会主義共和国)は日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説を行ったことで知られています。
この言葉に似たものはいくつかございます。
『論語』にも
「或るひと曰く、徳を以て怨みに報ゆれば何如(いかん)、と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いよ、と。」
というのです。
意味は、
「ある人が「恩徳で怨みのしかえしをするのは、いかがでしょうか。」といった。先生はいわれた、「では恩徳のおかえしには何でするのですか。真っ直ぐな正しさで怨みにむくい、恩徳によって恩徳におかえしすることです。」(金谷治 訳)
というものです。
『老子』にも「怨みに報ゆるに徳を以てす。」という言葉がございます。
「恨みのあるものには、徳をもって報いてやる。」という意味です。
『法句経』にあるブッダの言葉はまさしくその通りです。理解できます。
しかし、実際に、その通り行うのは難しいものでもあります。
日本経済新聞に、「この父ありて」という連載記事がありました。
カトリック修道女であった渡辺和子先生のことを五回にわたって連載されていました。
渡辺和子先生には、円覚寺の夏期講座にもお越しいただいています。
その折りにもご一緒に食事もさせていただき、手紙のやりとりもさせてもらっていました。
私も心からご尊敬申し上げる方でいらっしゃいました。
渡辺先生のお父さまは、陸軍大将であった渡辺錠太郎氏でした。
陸軍教育総監を務めておられ、昭和十一年二月二十六日、自邸を襲撃した叛乱軍に殺害されたのでした。61歳でした。
世にいう二・二六事件であります。
その時に、渡辺和子先生は、わずか九歳でした。
同じ部屋で休んでいて、父が殺害されるところをまのあたりにしていたのでした。
渡辺先生には、近くの机のかげに隠れさせて、錠太郎氏は拳銃で応戦されたのでしたが、43発もの銃弾を浴びて亡くなったのでした。
渡辺先生が五十代になろうとする頃、テレビの二・二六事件の特集番組に呼ばれたそうです。
控え室で、なんと叛乱 (はんらん)軍の伝令を務めた人と同じになりました。
和子先生は、その方が同じ番組に出演することを、そこで初めて聞かされたのでした。
コーヒーが運ばれてきたそうですが、そのコーヒーを飲むことができなかったというのです。
日経新聞に記事には、
「父を殺された衝撃と悲しみは簡単に消えるものではないが、恨みは乗り越えたつもりだったし、聞かれればそう答えてきた。
だがこのとき、心の奥底では許していなかったことに気づいた」
と書かれていました。
記事を書かれた方が、渡辺先生に出逢って、コーヒーを飲めなかったときの気持ちをあらためて尋ねると、
「やっぱり私の中には父の血が流れている。そう思って、うれしかったですね」
と答えられたそうです。
そう簡単に、許せるというものではないのです。
記者の方が
「では、いまは許せるという気持ちになられたのでしょうか」
と尋ねると「もう、恨みはまったくありません」と答えられたそうです。
事件から五十年過ぎて、渡辺先生は、青年将校たちの慰霊法要に出られたそうです。
法要のあと、墓参の折に、渡辺先生は、渡辺邸を襲撃し、最後にとどめをさした二人の実弟に会いました。
そこで、渡辺先生は、
「叛乱軍という汚名を受けた身内を持ったこの方たちは、被害者の娘であった私より、もっとつらい50年間を過ごされてきたのだと、そのとき気がついたのです。この日を境に気持ちに区切りがつきました」と語っておられるのです。
全てを捨てて、カトリックの修道女として生きながらも、五十年にわたって、怨みは簡単に消えるものではなかったのです。
軽々しく、「怨みは、怨みなさによってやむ」など口にするものではないなと反省しました。
それが人間の心でありましょう。
かつて私が渡辺先生にお目にかかった折りにも、
襲撃した兵は、まず渡辺錠太郎氏の足を銃弾で撃って、動けなくしてから、惨殺されたことを、憤りをあらわにして語ってくださいました。
帝国軍人だといいながら、卑劣なやり方だと言っていました。
またその日も、憲兵が常駐していたのに、襲撃前に電話を受けて、二階に上がったまま、何の護衛もしなかったことにも、憤りを覚えていらしゃいました。
そんなことも思い出しました。
日経新聞の記事では、
「43発の銃弾を浴びて血まみれになった父が、その死をもって私に教えてくれたのは、人の命がいかにはかないかということ。
そして、暴力をもって世界を変えようとしたとき、どんなに恐ろしいことが起こるかということでした」
インタビューの最後に語られた言葉が記されていました。
心に刻むべきであります。
なぜ、あのような事が起こったのか、考えなくてはなりません。
そして、そう簡単に許せるものではない人間の心を忘れてはなりません。
そんな人間をもお救い下さるのが、神さまなのでしょう。仏さまなのでしょう。
仏心は、そんな心を覆い包むものであります。
横田南嶺