理屈や言葉からこぼれ落ちてしまうもの
加藤さんとは、とあるお寺の講演会で、ご挨拶をいただいて以来のご縁であります。
天台宗で得度されて、僧籍もお持ちの方でいらっしゃいます。
昨年クリスティーズのオークションで、ご自身の作品が、とても高額で落札されたことが話題になりました。
その後にもご活躍のご様子をうかがっていました。
久しぶりにご丁寧なお手紙と、最近ご自身が取り上げられた冊子などを同封していただきました。
既にご高名になられているのに、私如きに者にもお心をかけてくださるのは、実に恐縮であります。
綺麗な文字のお手紙からは、ご高名になられても謙虚に清淨なお暮らしをされている様子が伝わってきます。
仏像を彫るには、毎日の暮らしが大きく影響しますので、真摯なご様子がうかがわれたのです。
オークションで落札されたのは、ご自身が彫刻家として創作された作品でありました。
仏師であると同時に彫刻家でもあるのです。
お送りいただいた『美術の窓』という月刊誌には、渡辺綱が、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした時の緊迫した姿を表した作品が大きく掲載されていました。
鬼の腕を切り落とすという凄惨な場面ですが、『美術の窓』には、「鬼を討ち取る、一瞬の凄絶な美しさ」と題が付けられています。
そのように、緊迫した中にも、なんとも言えぬ清浄さ、透明感が感じられるものです。
創作作品と、仏像とどう違うかというと、仏像を作るには、細かな規定がたくさんあることであります。
螺髪という、仏像に独特の丸まった髪や、白毫という、眉間に生えている白く長い毛、右巻きに丸まっているものなどはよく知られています。
ほかにも三十二相などという決まり事がたくさんあるのです。
そんなたくさんの決まりを忠実に守ることによって、自分を表現しようという意識が無くなるのだと思います。
加藤さんは、いくら様式や型に則っているつもりでも、どうしても作為が入ってしまう、自分自身が無色透明になり、作為が消えたときに仏像は完成するという意味のことを仰せになっています。
仏像を拝んで心が安らぎ、落ち着き、なんとも言えない静かな心になれるのは、自我意識を消し去っているからなのだと思います。
素晴らしい芸術作品は、やはり作者が表現したいという思いで作っていますので、仏像に対する時のような穏やかな心とはまた別ものになると思われます。
心が本当に安まるのは、無心無我に触れたときなのです。
加藤さんは、東日本大震災で恐怖と無力感に陥っておられたそうですが、何かしなければと思い、祈りと鎮魂の仏像を被災地に届けようと活動されました。
昨年の三月にのべ千人以上の方に鑿入れを行ってもらった釈迦如来像を、大槌町のお寺に奉納されたそうです。
仏像というのは、仏教の理論など分からなくても、ただ手を合わせるだけで、その前に坐るだけで、心が静かになれるものです。
加藤さんは、そんな理屈などに関係なく祈る心を大切にしておられます。
「仏像は、理屈や言葉からこぼれ落ちてしまうものをすくい取ってくれるもの」だと言うのであります。
加藤さんは、現代の科学や技術が発達する中で、人間の尊厳や祈りを形にして、どんな宗教であれ、或いは無宗教であっても思わず手を合わせてもらえるものを作りたいのだと仰っています。
清らかな思いのお手紙をいただくと、こちらまで、心が浄められると感じました。
加藤巍山さんのこれからのご活躍を楽しみに致します。
素晴らしい仏像は、こちらの心を自然と穏やかにしてくれます。
仏像のお写真でもお部屋に飾るとそれだけでも大きな力があると思います。
坐禅のお手本となるのは仏像であります。
仏像をしっかりと拝んで、あの穏やかな表情をまねるような気持ちで坐るといいと思います。
そして自分も仏像になった思いで、静かな微笑みをたたえた気持ちで坐るとよろしいかと思います。
まずはまねごとから始めましょう。
毎日まねていると、だんだん中身もそのようになってゆくものです。
横田南嶺