禅とマインドフルネス
十四歳の時に、歯の治療で、アマルガムを詰め物に入れてから、二十年にわたって苦しまれたのでした。
働くこともできず、部屋に閉じこもり、ベッドと手洗いを往復するだけの暮らしで、絶望するしかありませんでした。
治療法もありません。
絶望のどん底で生きる気力もなくなってしまい、もう「無」の状態になったときに、ただ台所に置いてあった「お茶碗を洗おう」という気持ちが湧いてきました。
その時の様子を栗生さんは、ただ自分の動きをありありと感じるだけの状態だったと言われました。
足に力を入れて、起き上がる、ベッドから床に降りる、足の裏が床に触れる、その感覚。
一歩足を踏み出す動き、足の裏が床に着く感じ、更に一歩踏み出す動き、手で流しのスポンジを取るその感触、蛇口に手が触れる、冷たい感じ、流れる水が肌に触れる感触。
手や足やスポンジや水という言葉も概念もなく、ただ動く感覚のみがあるという状態だったと語っておられました。
そんな言葉を聞いて、江戸期の禅僧である至道無難禅師の道歌を思い出しました。
主なくて見聞覚知する人を
いきほとけとはこれをいふなり
という歌です。
見ている我がないのだけれども、ただ見たり聞いたりしてはたらいているというのです。
こういう状態の人を生き仏というのです。
我のないところで、ただそのような感覚のみがたちあがっているのです。
我がないので、対象物と自己との区別も隔てもありません。
言葉によって形成された概念がなくなっているのです。
二項対立の無い、無分別、無分節の世界です。
これが、禅の目指すところなのです。
マインドフルネスも、似ているように見えます。
ただ足を上げる感覚、足の裏で床を踏む感覚、手で蛇口に触れる感覚、流れる水に触れる感覚を意識します。
しかし、これは自分でこうしてこうやろう、気づいていようと、意識して行うものであります。
気づいていようと意識して行っていますので、自他の隔てがあります。
足を降ろす、床を踏むなど、どれも言語化してしまって、すべてが概念になってしまいがちなのです。
「主なくして」「ただ」というところにはなかなか到りません。
「主」とは自我意識であります。
「主なくして見聞覚知する」の、「見聞覚知する」方に重きをおくのがマインドフルネスだと思います。
マインドフルネスも、素晴らしい効果があって、忙しい人、心が散乱して落ち着かない人などには、すぐに心を落ち着かせることができますのでいいと思っています。
しかし、それだけでは、究極の苦しみの解決にはならないと思います。
言葉による概念の壁を乗り越えがたいところがあります。
「主なくして見聞覚知する」の、「主なくして」に重きを置くのが禅の修行だと思います。
「自我意識」を滅する修行をします。
臘八大摂心などは、その修行です。
あえて睡眠を削り、眠ると警策で打ち、叱咤激励を激しくして、禅問答に挑んでは、何度通ってもはねのけられて、自我意識を完膚なきまでに打ち砕いて、絶望の底に追い込むのであります。
そうして、何もないところで、ありありと「主」なくして見たり聞いたりしている活動体を自覚するのであります。
これも素晴らしいのですが、「主をなくす」ことに一所懸命になって、おれは主をなくしたのだと言っては、また新たな主を作り出しかねません。
新たな自我意識を増大することにもなりかねないのです。
この何もないところからはたらいてくるものを自覚することを至道無難禅師は、
いきて居る物をたしかにしりにけり
なけとわらへと只なにもなし
と詠っております。
何もないのですが、ただ生き生きとはたらくのであります。
泣くときに、涙を流すし、嬉しい時にはお腹を抱えて笑うし、それでいて何もあとかたが残らないのです。
サラリサラリとして心境なのです。
何ものにも止まらずに、自由にはたらいていくことができます。
その消息を至道無難禅師は、
すみ所なきを心のしるへにて
そのしなしなにまかせぬるかな
と詠っています。
なにものにも引っかからずに、その時々のものに応じてただ自在にはたらくのであります。
また至道無難禅師は、
なにもおもはぬ物から、なにもかもするがよし。
と仰せになっています。
こういうところを、昨日紹介した道歌、
いきながら死人となりてなりはてて
おもひのままにするわざぞよき
で詠っているのであります。
盤珪禅師は、不生の仏心のままでいればいいと説かれていますが、それは決して、わがままでいることや、好き勝手にすることではありません。
やはり、何もなきところ、何も思わぬところを体験してから、湧き出てくるはたらきを言うのであります。
禅とマインドフルネス、いずれにしても、自他相対の上に、概念で行じているのでは、究極の安楽にはなりえません。
どこまで自己を忘じた消息、自他一如、不二の心境であるかどうかであります。
横田南嶺