利他の難しさ
玄峰老師から、何の為に寺に来たのかと問われた青年は、
「世のため、人のためにと念願して修行したいからです。」と答えました。
玄峰老師は、「ああ、奇特なことじゃ」と褒められました。
それから三ヶ月経って、同じ事を玄峰老師は問いました。
同じように「世のため人のため……」と答えたところ、
玄峰老師の大喝一声が轟きました。
「お前は、まだ解らぬのか!
わしは、世のため、人のためにと念じて修行したことは一度もない、みんな自分のためにやっているのや」
と言って、部屋に帰ってしまったという話があります。
この頃、伊藤亜紗編『「利他」とは何か』(集英社新書)を読んでいます。
利他とはどういうことか考えさせられます。
考えていて思い出したのが、この玄峰老師の話です。
伊藤亜紗さんは、ご自身の研究を、「利他ぎらい」から出発したと書かれています。
「なぜそこまで利他に警戒心を抱いていたのかというと、これまでの研究のなかで、他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながると感じていたから」だというのです。
「善意が、むしろ壁になるのです」というのであります。
一九歳のときに失明した方の話を紹介しています。
失明してから、その方は
「「毎日はとバスツアーに乗っている感じ」になってしまったというのです。
「「ここはコンビニですよ」。「ちょっと段差がありますよ」。どこに出かけるにも、周りにいる晴眼者が、まるでバスガイドのように、言葉でことこまかに教えてくれます。
それはたしかにありがたいのですが、すべてを先回りして言葉にされてしまうと、自分の聴覚や触覚を使って自分なりに世界を感じることができなくなってしまいます。たまに出かける観光だったら人に説明してもらうのもいいかもしれない。
けれど、それが毎日だったらどうでしょう。」
というのです。
「障害者を演じなきゃいけない窮屈さがある」とも書かれています。
伊藤さんも「晴眼者が障害のある人を助けたいという思いそのものは、すばらしいものです。けれども、それがしばしば「善意の押しつけ」という形をとってしまう。障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうのです。」と指摘されるのです。
なるほど、そういう問題もあるのかと思いました。
善意というのは難しいものです。
更に伊藤さんは、若年性アルツハイマー型認知症当事者の方の話も紹介しています。
「助けてって言ってないのに助ける人が多いから、イライラするんじゃないかな。家族の会に行っても、家族が当事者のお弁当を持ってきてあげて、ふたを開けてあげて、割り箸を割って、はい食べなさい、というのが当たり前だからね。
「それ、おかしくない? できるのになぜそこまでするの?」って聞いたら、「やさしいからでしょ」って。「でもこれは本人の自立を奪ってない?」って言ったら、一回怒られたよ。でもぼくは言い続けるよ。だってこれをずっとやられたら、本人はどんどんできなくなっちゃう。」
と書かれています。
「何かを自分でやろうと思うと、先回りしてぱっとサポートが入る。
お弁当を食べるときにも、割り箸をぱっと割ってくれるといったように、やってくれることがむしろ本人たちの自立を奪っている。病気になったことで失敗が許されなくなり、挑戦ができなくなり、自己肯定感が下がっていく」
ということがあるのだそうです。
「周りの人のやさしさが、当事者を追い込んでいる」というのだそうです。
鈴木大拙先生の言葉に、
「禅者の言葉に「教壊」と云うがある。
これは、教育で却って人間が損われるの義である。
物知り顔になって、その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であると謂わなくてはならぬ。」
というのです
事細かに教えることによって、却って人間本来持っている素晴らしい特質が失われることを言います。
盤珪禅師は、苦しい修行の結果、人は皆生まれながらに「不生の仏心」を具えていると説きました。
そして、まわりの者たちには、苦労して修行しなくても、この「不生の仏心」の話を畳の上で聞いて得心すればいいのだと説かれました。
それを譬え話で示されています。
高い山道を歩いていて、水が無くなってしまい、ある一人が、骨折って谷底まで降りて水を汲んできました。
そしてようやくの思いをして汲んできた水を皆に飲ませました。
そうすると、骨折って谷底に行って水を汲んできた飲んだ者も、何の骨も折らずに汲んできた水を飲ましてもらった人も、同じように渇きはやむのです。
盤珪禅師は、自分は苦労してようやく気がついたのだけれども、それを皆には苦労せずに教えてあげて、心の安楽得させるのだと説かれたのでした。
盤珪禅師のお慈悲の深さを思います。
人は、往々にして自分が苦労すると、ほかのものにも同様の苦労をさせようとします。
時には、自分以上の苦労をさせたりもします。
盤珪禅師はそのようなことはさせませんでした。
しかしながら、盤珪禅師の教えを伝える者は、早くに無くなってしまいました。
「教壊」とまで言わないにしても、やはり時には人に対して、骨折って谷底まで突き落としてみることも必要だったのかもしれません。
少しくらい意地悪い指導者の方が、よい弟子が育つのかもしれません。
難しいことであります。
利他の問題は難しいものです。
『「利他」とは何か』の中で、若松英輔先生も執筆されています。
若松先生の柳宗悦のことを書かれています。
そして「利他」については、柳宗悦の「不二」ということを説かれています。
柳宗悦の言葉を引用しています。
「それは凡て現世での避け難い出来事なのである。
仏の国でのことではないからである。
ここは二元の国である。
二つの間の矛盾の中に彷徨うのがこの世の有様である。(中略)
人間のこの世における一生は苦しみであり悲しみである。
生死の二と自他の別とはその悲痛の最たるものである。
だがこのままでよいのであろうか。
それを超えることは出来ないものであろうか。二に在って一に達する道はないであろうか。(『新編 美の法門』)」
という言葉です。
そして若松先生は、
「利他は「他」と「自」がおのずと一つになっていなければ起こり得ない、という基本的かつ肉感的な認識が柳にはありました。」
と説かれています。
「利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。
それが他者によって用いられたときに現出する。
利他とは、自他のあわいに起こる「出来事」だともいえます。」
というのです。
ここで説かれている「自他のあわい」というのは、「自他不二」「自他一如」のことだと思います。
自他を分けて分別するのではなく、自他一如のところをみなければなりません。
玄峰老師が、
「みんな自分のためにやっているのや」という「自分」は、自他を分けた上の自分ではなく、自他のあわい、自他一如の自分であります。
自他を分けるから難しくなるのです。
ここのところを見誤ってはなりません。
横田南嶺