盤珪禅師の慈悲 – 其の二
盤珪禅師の譬え話です。
山道を歩いていて、水が無くなって渇きに困った時、一人の者が谷底へ降りていって水を汲んできました。
そして、その水を皆に飲ませてあげました。苦労して水を汲んだきた者も、何の苦労も無しに飲ませてもらった者も、同じように渇きはやむというのです。
盤珪禅師は、自分自身は眼の明いた指導者に出会えなかったので、骨折って修行して、ようやく「不生の仏心」に気がついたのだけれども、皆には難行することなしに、この仏心を申し聞かせて心の安楽を得させることは、尊い正法ではないかと説かれたのです。
人は、往々にして自分が苦労すると、他人にも同じ苦労をさせようとしたりします。しかし、慈悲深い盤珪禅師は、そのようなことはさせませんでした。
苦労をするのは自分だけで十分だ、皆には話して聞かせてあげればよいとされたのでした。
ほかにも盤珪禅師のお慈悲の深さを物語る話が伝わっています。
今でも坐禅するときには、眠っている者がいたり、精神を集中できないでいる僧がいたり、或いは、懸命に坐っている僧を、更に一段精神的に飛躍させようとして、「警策」という棒で肩を打つことがあります。
坐禅といえば、一般の方でも、この警策で打つ姿を思い浮かべるようです。
それほどまでに、今や坐禅の定番というほどにまで、馴染んでいます。
お互いに、棒で打つこと打たれることを了承して行っているので、問題にはならないのであります。
しかし、盤珪禅師は、これをなさいませんでした。
盤珪禅師のお寺で坐禅中に眠る僧がいて、それを叩く僧がいました。
今でいえば当然のことで、何も特別なことではありません。
ところが、盤珪禅師は、なんと眠っていた僧を叱ったのではなくて、叩いた方の僧を叱ったのでした。
眠れば仏心で眠り、覚めたら仏心で覚めるだけのことで、眠ってしまうと、仏心が別のものになると思うのは間違いだというのです。
叩いて何かにしようというのが造作なことだというのです。
今日の禅の道場から見れば極めて異例のようですが、この頃はいろんな事が分かってきています。
この「警策」というものも、禅の歴史では古くからあるものではなく、江戸時代に黄檗の教えと共に入ってきたことが明らかになっています。
ですから、盤珪禅師が説かれることは特別に変わったことではなかったのです。
もともと警策で打つというようなことはなかったのに、黄檗の教えと共に入ってきて、そのように眠った僧を打つということはないと、本来のあり方を示したとも言えましょう。
黄檗の教えが日本に入ってくるのは、盤珪禅師が活躍された時なのでした。
また、盤珪禅師は、今の臨済宗の修行で大切にしている公案(禅問答に用いられる古人の言葉)の工夫も否定されました。
私などは、一則の公案を、利刀のようにひっさげて、心中に沸いてくる雑念妄想を叩き切るような気概で坐れと教えられてきました。
公案を否定していながら、それでいて、盤珪禅師は毎日十二炷の坐禅をさせていたと言います。
公案も何も用いずに一日十二炷という長い時間坐禅をするということはたいへんなことであります。
一炷が四十分ほどとすれば、十二炷でおよそ八時間ほどになります。
今も修行道場では大摂心になれば、それ以上の時間を坐っていますが、容易なことではありません。
私なども長年禅堂で過ごしてきましたが、公案という課題を与えられるからこそ、何とかこの公案の見解を老師に認めてもらおうと骨を折って励むことができたものでした。
何もない中でただ坐るこということはよほどの根気がないと無理なように思います。
また、盤珪禅師は、林貞尼に与えた書簡には、起こる念があろうとも、起こるままに、また止むままにしておけば自然と本心にかなうというのです。
念は見たり聞いたりする縁によって起こるもので、実体のあるものではないと説かれています。
その通りなのでありますが、実際にこの通りに行うと、ただ雑念にまみれて、座布団の上で空しく時を過ごすということにもなりかねないのではないかと思われます。
盤珪禅師のこの慈悲深さが弟子たちには果たして本当に伝わったのでしょうか。
盤珪禅師の教えを継承する弟子達が、早くに無くなってしまったという事は考えさせられます。
誰かが苦労して水を汲んでくれば、ほかの者は苦労せずともその水を飲めば渇きはやむのだと言われても、やはり時には、あえて千尋の谷底へ突き落とすような意地の悪さも、弟子の指導には必要だったのではないかという思いもします。
何の苦労もしなくて、畳の上で聞いていればいいと説かれた盤珪禅師の、お慈悲深いことはもっともですが、少々深きに過ぎたのではないかとも思います。
ただ不生の仏心のままでいればよいと言われても、取り付く島もなかった一面もあったろうかと察します。
そこで、修行には苦労も必要だし、いろんな方法も必要だと論じたのが白隠禅師でありました。
敢えて公案を工夫させ、しかも公案に階梯を設けて修行させるということを取り入れられました。
これなどは盤珪禅師に言わせれば「造作なこと」なのでしょうが、この「造作なこと」が、初心の修行者には必要だったと思います。
あえて意地悪なことをするのも慈悲のひとつかとも思います。
そこで、白隠禅師は、その「意地の悪さ」を「毒」と表現されました。
あえて「毒」を食らわせることによって、自己本来の力を発揮させようとしたのです。
白隠禅師が『毒語心経』や『荊叢毒蘂』などという表題の書物を著されたのも、この「毒」でありましょう。
盤珪禅師の慈悲に、白隠禅師の毒が加わって、今日まで臨済の教えが伝わっています。
もっともあまりに毒が強すぎても問題になってしまいます。
これも難しいところです。
横田南嶺