不二
先日は、『維摩経』のクライマックスとでもいうべき「入不二法門」の章を学びました。
不二ということは、文字通り二つにあらずということです。
二つということは、たびたびご紹介している「分別」によってもたらされる世界であります。
まず知るということは、分別することであり、これはものを二つに分けて比較することであります。
「分別知のために迷い苦しむ衆生は、どうすれば、その苦悩から脱出することができるか。
仏教ではその解決法として「不二」という教えが説かれているのです。」
と西村恵信先生は、『維摩経ファンタジー』の中で解説されています。
更に西村先生は、
「ブッダ自身その解決法を、分別知からの逃避ではなく、「迷いの分別知から、悟りの分別知へ」という超越的次元に求めたのです。
これはいわゆる分別からの超越ではなく、分別の中での超越とも言うべきもので、無理に言えば「内在的超越」とも言うことができましょう。」
と説かれています。
これが「無分別の分別」というところなのです。
不二とは、「善と悪、美と醜、浄と不浄」など相反するものが一つとなる世界を説いています。
維摩居士は菩薩方に対して、この不二の法門について教示を願います。
この質問に最初に答えたのは法自在菩薩でした
法自在菩薩が答えたことを、釈徹宗先生の『100分de名著 維摩経』によれば、
「生じることと滅することとは互いに相反しています。しかし、存在するものは生じることはありません。ということは、滅することもないのです。これを体得すると無生法忍(安寧なる悟りの世界)を得ることができます。つまり、相反するものさえ平等なる世界(不二の法門)です」
と解説されています。
ほかにも徳守菩薩が、「我と我所」、不眴菩薩が、「感受と感受しないこと」、徳頂菩薩が「汚濁と清淨」という二項対立とそれを超えた不二の法門を説かれます。
そのほかにも
「対象と主観」「善と不善」「徳と悪」「聖と世俗」「悟りの世界と迷いの世界」「智慧と愚痴」「色と空」「刺激と感覚器官」「身体と精神」「自分と他者」「光と闇」「真実と虚偽」などなど、菩薩たちがさまざまな二項対立の例を挙げながら、「それを解体した世界こそが不二の法門である」と語っているのです。
二項対立というのは難しいものです。
気がつかないうちに、お互いに二項対立を作り出してしまっています。
釈徹宗の著書『なりきる すてる ととのえる』には、「二項対立のワナ」という章で、次のような話がございます。
「あなたが毎日曜日に『街をきれいにしよう』と、ゴミ拾いのボランティアを始めたとしましょう。
代償を求めて始めたわけでも、誰に褒められようとして始めたわけでもない。
純粋に”自分が気持ちいいから”という思いから始めました。……あなたは誰にも知られず、その活動を続けたとしましょう。
(中略)でも、一歩間違えれば、あなたは無神経にゴミを捨てる人を許せない人間になってしまいます。
そういう人を心から軽蔑し、ゴミを捨てている行為に対してはげしい怒りを感じるかもしれません。
もしそうなれば、あなたは『街をきれいにする人』と『街を汚す人』との二項対立で組み立てられた人格になってしまうんですよ。ここがワナなんですね」
と解説されています。
よいことをやっているつもりでも、これが新たな分別を生み出し、二項対立を作り出してしまっています。
西村先生の本から引用して学んでみましょう。
「このように菩薩たちが、入不二法門について、それぞれ自分の所信を述べ終わってから、文殊菩薩に向かって、「ところで文殊菩薩にとって、不二の法門に入るとは、どのようなことでしょうか」と尋ねますと、文殊菩薩は次のように答えられたのです。
私には、すべての存在するものについて、語る言葉も、説明も、示す方法もありません。意識すら持たないのです。したがって、あれこれと議論することさえありません。
まあ、これが私の入不二法門と言えましょう。
ここで文殊菩薩は維摩居士に向かって、「お聴きのように、私どもはそれぞれに自分の考えを述べました。どうか一つ、あなたの入不二法門をお聞かせださい」と言いました。
すると維摩居士は、ただ「黙」として、何も言われませんでした。
文殊菩薩はこの一黙を讃嘆して、
「善いかな善いかな、文字や言葉さえ届かない。これが真に、不二の法門に入る、ということなのだ」と絶賛したのでした。」
ということなのです。
文殊菩薩の説明も素晴らしいものです。
「語る言葉も、説明も、示す方法もありません。」というのです。
しかし維摩居士の答えは更にそれを上回ります。
ただ一黙なのでした。
なにか口を開けば、既に言葉によって分断されたものになってしまいます。
ただ一黙、これが維摩の一黙と称せられ、
「一黙、雷の如し」などとも言われるようになったのでした。
無分別は一黙となるのです。
なにも答えない一黙ではありません。
おおいに無分別を現している一黙なのであります。
ただ黙っているのではないのです。容易なことではありません。
西村先生は、
「禅の修行もまた、坐禅を通して修行者を一度、絶体絶命の「大死一番」の無意識に到らせ、そこから「絶後に蘇る」という意識への回帰を実体験させる、命懸けの修行であります。」
と説かれています。
意識と無意識という二項対立を超えるには修行が必要なのです。
その修行の第一歩として、まず体と心を調えることであります。
横田南嶺