盤珪禅師の慈悲
盤珪禅師の教えは、人は皆誰しも親に産みつけてもらったのは、「不生の仏心」ひとつであると言う事につきます。
「不生の仏心」とは、後天的に新たに生み出されたものではなく、もともと具わっている仏様の心ということです。
仏心とは不生なものだというのです。
何かの条件によってできるものではない、もとからあるということなのです。
盤珪禅師とはいったいどのような人であったのでしょうか。
一言で言えば、「慈悲の人」でありましょう。
まず一番その人となりをうかがわせる逸話が伝わっています。
人の声を聞くとその心の中まで分かるという盲人がいました。
盤珪禅師の声を聞いて、このように言われました。
人は、他人のお祝いを述べるときには、心の中に憂いがあり、逆に弔いの言葉を述べる時には、喜びがあるというのです。
人の心というのものはそういうものでしょう。
他人の不幸をお悔やみしながらも、心のどこか奥には、自分ではなくてよかったという思いが潜んでいるものです。
ところが、盤珪禅師の声には、そのような思いが一切感じられなかったというのです。声は嘘をつきません。
この逸話は盤珪禅師の人となりをよく言い得ていると思います。
お年を召されてからも、足袋を履くのに、決して人の手を煩わせることをしなかったいう話や、輿に乗っておられても、担ぐ人の苦労を思って、蹲踞しておられたという話などからも慈悲深いお人柄が伝わります。
大勢の修行僧が集まる結制がなされる折の事、一人の僧が入門を乞いました。
それより前に来ていた僧で、その僧の過去の行状をよく知っている者がいました。
どうも、今度入門しようという僧は、盗癖があって、過去にもよその道場で問題を起こしているというのでした。
そのことを、修行僧を監督する係の僧に告げました。
係の僧は、盤珪禅師に相談しました。
盤珪禅師は、修行というのは、そのような者の為にこそなされるものである、修行して悪い心が治るのなら、これほどの有り難いことはないではないかと言って、その盗癖のあるという僧も入門を許したのでした。
ある時の結制の折に、お金が紛失する騒ぎが起きました。
ある僧が、自分に嫌疑がかかっていることを盤珪禅師に告げて、誰が盗んだのか詮議して欲しいと頼みました。
盤珪禅師は、その僧に本当に盗んではいないかと聞きました。
そんなことはしませんと答える僧に、ではそれでいいではないかと言いました。
盗人を捜し出さねば困りますという僧に対して、盤珪禅師は、一言「詮議すれば過人(とがにん)がでるが、それでもよいか」と。
その僧も盤珪禅師のお慈悲の心にハタと気がつき感涙したのでした。
禅寺では今も雑炊をよくいただきます。
お昼の食事で残ったお汁で夕方は雑炊を作っていただくのです。
ところが盤珪禅師は、この雑炊を禁じたという話がございます。
ある夏の日、龍門寺で大勢の僧が集まる法会がありました。
その時に出した汁がだいぶ余ってしまい、翌朝の雑炊に使いました。
ところが夏のことで、いくらか腐りかけ、少し臭うようでした。
盤珪禅師は、その雑炊を召し上がり、いたんでいることに気がついて、このようなものを食べさすと、多くの者が腹をこわすかもしれない。
もしそのようなことになれば、大きな過ちだ、僧というのは、皆仏になるべき身である、今後汁があまって腐りかけていれば捨てるようにして、雑炊にしてはいけないと諭されました。
そして、その時に役を務めていた僧を寺から追放してしまいました。
時の龍門寺の住持だった大梁も自ら寺を出て蟄居しました。
数ヶ月の後、寺の老僧方がわびを入れようやく二人は寺に戻ることができました。
以来盤珪門下では、雑炊を禁止にして茶粥を用いるようにしたそうです。
どこまでも徹底して慈悲深い盤珪禅師のお人柄がうかがわれます。
人に対しては、徹底して不生の仏心のままで暮らせばそれでいいのだと説かれました。
不生の仏心のままで過ごすようにと説かれた盤珪禅師ですが、不生の仏心のままということは、わがままや好き勝手をすることではありません。
私ごころのない徹底した慈悲心のままだということなのです。
やはりこれは容易なことではありません。
盤珪禅師は、どうしたら不生の仏心のままで過ごせるか、具体的な方法を示すことはありませんでした。
方法を示してしまうと、仏心が作られたものになってしまいます。
そうかといって、何の方法もないというのも取り付く島がありません。
残念なことに、実に優れた盤珪禅師でしたが、その教えを受け継ぐものは、わずかの間に途絶えてしまいました。
難しい問題であります。
盤珪禅師がお亡くなりになって後に、白隠禅師がご活躍なされるのであります。
白隠禅師は、丹田呼吸であるとか、息を数える数息観であるとか、隻手の公案であるとか、実に豊かな方法を示してくれたのでした。
おかげで今日まで臨済の教えは伝わっているのです。
横田南嶺