かぎりなきいのち
限りある
いのちを持ちて
限りなき
いのちのひとを
恋いたてまつる
いきとし生けるもの
いつの日か終わりあり
されど
終わりなきひといますなれば
一日(ひとひ)のうれしかりけり
一生(ひとよ)のたのしかりけり
という詩であります。
鈴木大拙先生が『禅の思想』で説かれた「超個の個」ということを、この詩で学ぶことができます。
「超個の個」という概念は難しいものです。「無分別の分別」とも言います。
まず、この詩に詠われているように、お互いは、「限りあるいのち」を生きています。
この世に生きるということは、そうなのです。
みな限りがあります。
限定されています。
男性や女性として限られています。
寿命もまた、限られています。
いつまでの寿命であるかは分かりませんが、未来永劫ずっと続くものではないことは確かであります。
身長にしても、ある程度のところで成長は止まって限定された身体を生きています。
限りあるからだで、限りあるいのちを生きているのが、お互いなのです。
しかし、この限りあるものがすべてであると思っていると、やがて失われる時に動揺してしまいます。
限りあるいのちが「個」であります。
この世に生きていることは、「個」を生きているのであります。
それでいて、いや、それならばこそ、人は「限りなきいのち」を乞い願うのであります。
限りなきいのちを仏教では「法身」と説いてきました。
この「個」を超えたものを「超個」と鈴木大拙先生は呼びました。
そして「超個」を『禅の思想』の中では、大拙先生は「宇宙霊」という独自の表現で説いているのです。
この宇宙は常に移り変わり、その中で「個」なるものは生死を繰り返します。
その中にありながら生滅変化しないものを、人は求め続けます。
それを神と呼ぶこともあります。
浄土門で阿弥陀如来と呼ぼうが、禅門で仏心と言おうが同じことなのです。
それを「宇宙霊」と大拙は名付けたまでのことです。
それはまさに個別の世界を越えた「超個」であり、分別では推し量ることのできないので、「無分別」なのです。
人間が生きているのは、実は単なる「個」のはたらきによるものではなく、「個」を超えた大宇宙のはたらきそのものであると言う事ができます。
このいのちは、限定された個体に閉じられたものではないからです。
空気や太陽の光や、月の満ち欠けまで、天地あらゆるものが相互に関わりあって生かされているのです。
限りなきいのちが、この限りある私を生かしているのであります。
この「超個」なるもの、限りなきいのちを、浄土門では西方十万億土の阿弥陀さまであると説きました。
西洋の宗教でも天にまします神と説くのでしょう。
しかし、仏教、特に禅では、その「超個」なるものは、実にこの現実の「個」においてこそあらわになっていると説きます。
限りなきいのちは、この限りあるいのちの上にあらわになってはたらいているというのです。
禅においては、天にまします神として遠くに拝む対象ではなく、西方十万億土の彼方に求めるものでもなく、今ここの自己の上において、限りなきいのちがあらわになっていると自覚するのであります。
そうしますと、「個」の世界での苦しみがあったとしても、全くその苦しみから脱した「超個」を自覚することによって、救われるのであります。
浄土門では、この「超個」を人格化して阿弥陀如来を説きますが、禅は知的であるためそこまで人格化することはしないで、「那箇」(あれという意)とか「一人」として示しています。
大拙先生は、超個と個、宇宙霊と己霊、無分別と分別との関係を次の問答で説明されています。
雲巌が茶を煎れていた時に、道吾が問いました、
「誰に煎れてやるつもりなのか」と。
雲厳が「一人欲しいというものがあるのだよ」と答えました。
道吾が「自分で煎れさせたらよいではないか」と言うと、
雲厳は「わしがここに居るでな」と答えたというのです。
これだけの問答です。
ここで雲厳の言う「一人欲しいというものがある」という一人は、法身であり、宇宙霊であり、超個であり、限りなきいのちであります。
この一人は自分で茶を煎れることはできないのです。
宇宙霊にしても超個にしても、無分別にしても、何の行為も起こしはしないのです。
「わしがここに居るでな」という私によって茶は煎れられるのです。
この「わし」は「個」であり、分別であり、「限りあるいのち」にほかなりません
この限りある私の営みによって、限りなきいのちが養われているのです。
西方十万億土までゆかずとも、ここでお茶を飲むことによって、限りなきいのちと一つになっているのであります。
そして、只今のこの一呼吸に、限りなきいのちのはたらきを感じることができるのであります。
横田南嶺