素直な心
以前にも書きましたように、卒園児一人一人に管長が修了証書を手渡し、そして卒園児には色紙を差し上げます。
少人数の幼稚園なので、皆に書いてあげることができます。
私は、
花が咲いている
精いっぱい咲いている
わたしたちも
精いっぱい生きよう
と書くのですが、先代の足立大進管長は、「すなお」の三文字を書かれていました。
この「すなお」の三文字に、仏教の大切な思いを込めてお書きになっていたのだと察します。
素直な心というと、松下幸之助翁の言葉を思い起こします。
『素直な心になるために』という本もございます。
私などは、なんと言っても『維摩経』を思います。
先日小欄でも紹介しましたように、維摩居士が病に伏せって、お釈迦様がお弟子をお見舞いに行かせようとされました。
ところが、舎利弗も目連も迦葉も皆、過去に維摩居士にやりこめられた経験があるので、とても維摩居士のところには行けませんと言って辞退しました。
そこでお釈迦様が、弟子達が駄目なら、菩薩方に行ってもらおうとします。
ところが、菩薩方も維摩居士のところにはとても行けませんと言って断るのです。
まずはじめに弥勒菩薩が断りました。維摩居士から、「菩提」について、懇切に説いてもらったことがあったのです。
次に、「光厳童子」に頼みました。
「光厳童子」と呼ばれますが、この方も菩薩さまであります。
今僧堂で学んでいる、西村恵信先生の『維摩経ファンタジー』を参照してみましょう。
「あるとき私がこのヴァイシャーリーの街を出て行きますと、維摩居士が街へ帰って来られるのに出会いました。
私が頭を下げて挨拶し、「どちらからお帰りですか」と尋ねますと、「道場からです」と答えられましたので、「どちらの道場からですか」と言いますと、次のように、詳しくお答えになりました。
直心はこれ道場、虚仮なきがゆえに。
発行はこれ道場、よく事を弁ずるがゆえに。
深心はこれ道場、功徳を増益するがゆえに。
菩提心はこれ道場、錯謬(間違えること)なきがゆえに。」
というのです。
このあとも更に延々と道場とはどういうものか維摩居士が説いているのです。
釈徹宗先生の『NHKテキスト 100分de名著 維摩経』も参考にしてみましょう。
釈先生は次のように解説されています。
「あるとき、維摩の屋敷の前を歩いていた光厳童子は、外出から戻ってきた維摩とばったり出くわします。
挨拶がてら童子が「維摩さま、本日はどこに行かれていたのですか」と尋ねたところ、維摩は「道場から来ました」と答えたそうです。
そうは言っても維摩は在家者なので、不思議に思った童子は「道場とはどこの道場のことを言っているのでしょうか」と再び尋ねたところ、こんな答えが返ってきました。
「真実の心も道場だし、心を定めて実行することも道場です。
道を追い求めることも道場です。
他者を慈しむことも、他者の悲しみを受け止めることも、他者の喜びを我が喜びとすることも、自分の都合を捨てることも、すべてが道場なのです。
さまざまな煩悩さえも、私を仏法へと導く道場だし、この迷いの世界も道場です。
日常の行為、足の上げ下げさえ、すべては道場であり、仏の教えを実践しているのです」」
というのです。
この経典の言葉を受けて釈先生は、更に
「ここで維摩は、世俗から離れた場所で修行を続ける出家者のあり方を否定して、「悟りを求める気持ちさえあれば、この世界のあらゆる場所、あらゆる行為、日常生活すべてが仏道修行になる」と説いたのです。
はっきり言えば、「出家や在家といった形態は、仏道の本質的な問題ではない」と宣言したことになります。」
と説明してくださっています。
西村先生は、漢訳の経典の言葉のまま「直心」と説いていますし、釈先生は「真実の心」と説かれています。
漢訳では「直心」となっているのですが、もとの言葉が気になります。
『維摩経』は長い間ずっと、サンスクリット原本が失われていると考えられていました。
それが1999年にチベットのポタラ宮で、サンスクリット原本が発見されたのでした。まだ二十年ほど前の話なのです。
サンスクリットから日本語に訳した『維摩経』も、ただいま角川ソフィア文庫で読むことができます。
該当箇所を調べてみますと、
「良家の子よ、覚りの座ということは、偽りのないことで、意向という座である。」と書かれています。
道場は覚りの座、直心は偽りのないこととなっています。
ともあれ、「直心是れ道場」という言葉は禅語としてよく知られ、墨蹟などにもよく書かれるのであります。
もう少し意味を深めようと、山田無文老師の『維摩経講話』を参照します。
無文老師は、まず次のように説いて下さっています。
光厳童子が、
「ある時、私が用事があって毘耶離の街を出ようとしますと、ちょうどその時、維摩詰が外から街へ帰ってきて、城門に入ろうとするのに出会いました。
そこで私がご挨拶して尋ねました。「居士さん、どこからお帰りですか」と。
すると居士が答えて言われるには、「吾れ道場より来たる」と。「道場」というのは修行をする場所のことで、私どもが雲水を教育する所を「専門道場」と言います。これは坐禅を専門にする道場という意味であります。
維摩居士が、「道場からやってきた」と答えたので、光厳童子は不思議に思ったのです。
なぜかと申しますと、「道場」と言えばお釈迦さまのいらっしゃる所であり、そこで日々修行させてもらっているのですし、その道場は、毘耶離の城内にあるからです。
それだのに維摩居士は、城外から帰ってきて「道場より来たる」と言う。
そこで疑問に思って、「道場とは何れの所か是れなる」、道場というのは、いったいどこでございますか、どこの道場でございますかと尋ねました。」
という背景があるのです。
更に「直心是れ道場」について無文老師は、
「光厳童子の考えでは、建物があって坐禅する場所があったり、また礼拝堂があったりするのが「道場」だとばかり思っていたのに、維摩居士は思いもよらぬことを言い出しました。
「直心は是れ道場なり」、道場というのは建物や形態ではない、心の問題である。
真っ直ぐな、素直な心が道場である。
正直な心、自己を偽らない心が道場である。
これが維摩居士の「道場」であります。
寺や建物がなくても、働いておっても、町を歩いていても、直心である時、そこが「道場」なのであります。
私の所には雲水が四十人ばかり修行しておりますが、よく言うのです。
「もし道場に長くおることが偉いなら、昔からおる犬が、うちでは一番悟っておるはずじゃ」と。
時間や空間が道場ではありません。精神の問題であります。
「直心是れ道場」、まことによい言葉ではありませんか。
「虚仮無きが故に」。私どもの生活には、嘘があってはなりません。道場は、虚偽のない所であります。」
というところであります。
嘘偽りのない心というと、誠の心であり、私は「至誠」という言葉に近いのかと思います。
釈徹宗先生が「真実の心」と表現されているように、まことの心、まごころというのに近いと考えます。
「至誠息(や)むこと無し」という言葉にも通じるかと思います。
『中庸』という書物に
「至誠息むこと無し」という言葉があります。その後に「息まざれば久し。久しければ徴(しるし)あり」と続きます。
「この上ない誠実さ、まごころを怠ることなく、あきらめずに保てば長く勤めることが出来る。長く勤めれば必ず目に見えるしるしが顕れる」という意味であります。
まごころを持って、倦まず弛まずどこまでも貫いて、途中でやめることさえしなければ、必ず目に見える成果が現れるということです。
どんな人でも、世の中でも変えてゆく事が出来ます。
嘘偽りの多い中でも、頼りとすべきはまごころひとつ、お互いこのまごころを貫いてまいりたいと存じます。
そのまごころをもって勤めるところ、そこが真の道場なのです。
横田南嶺