中根東里
鍵山先生は、ご存じのイエローハットの創始者であり、日本を美しくする会の相談役でもあります。
戦後ご苦労されながら、自動車業界に入られ、当時は粗野で荒んだ業界の空気を変えるために、トイレの掃除を始められたのでした。
ローヤルという会社を立ち上げて、それが今日のイエローハットになります。
「凡事徹底」が鍵山先生の信条で、日常の些細なことを丁寧に行ってゆくことを大事にされています。
トイレ掃除は、徹底されたもので、NPO法人「日本を美しくする会」も立ち上げられたのでした。
私自身も、鍵山先生の高潔なご人格に触れて、心からご尊敬申し上げているのであります。
鍵山先生は、たいへんな努力家であり、また勉強家でもあり、よく歴史も学んでおられます。
私は、PHP研究所のご縁で、対談もさせていただいて、一冊の本になっています。
『二度とない人生を生きるために』という本であります。
円覚寺の夏期講座でもお話いただいたことがあります。
僧堂で学習用に使っている越川春樹先生の『人間学言志録』も鍵山先生から寄贈していただいたものでした。
そんな鍵山先生が、歴史上の人物ではいったい誰を最もご尊敬されているのか、うかがったのでした。
その時に、鍵山先生は、「中根東里です」と、即答なされました。
そして、鍵山先生は、磯田道史先生の『無私の日本人』に書かれている中根東里のことが素晴らしいと教えて下さいました。
中根東里というと、一般にはあまり知られていないかと思います。
私自身も、『無私の日本人』で読んでいる程度のことしか知らないのです。
なにせ資料が少ないのです。
磯田先生の『無私の日本人』は、鍵山先生もご推薦の素晴らしい内容の本であります。
最近知人が、この本を読んで感動されて、僧堂の修行僧たち全員に寄贈して下さったのでした。
有り難いことと思い、僧堂の修行僧皆で勉強会を開いて、輪読してきました。
中根東里については、修行僧たちも全く知らないようでした。無理もありません。
中根東里は、江戸時代中期の儒学者であります。
儒学者といっても中江藤樹や伊藤仁斎、荻生徂徠のように教科書に載っているというわけではありません。
中根東里は、一六九四年に伊豆の下田で生まれて、一七六五年に浦賀で亡くなっています。七十一歳ですから、当時としては長命でした。
特別歴史に残るようなことをしたというわけではありません。
幼少より学問好きで、十三歳の時に父が亡くなり、禅宗の寺に入って僧になりました。
漢籍を読むことに長けていて、宇治の万福寺では、中国語で漢文を習っていました。
それだけに本格的に漢籍を読むことができたのだと察します。
ただ、当時の禅寺にはなじむことができずに、荻生徂徠の門に入って更に学を深められました。
そして還俗されてしまいます。
徂徠の学問に疑問を抱いて、室鳩巣に師事されました。
更にそれでも満足できずに、陽明学を学ぶようになりました。
中根東里は、単なる学問だけではなく、貧しい人がいると自分の書物を売ってでも助けてあげるような、儒教で説く「仁」(おもいやり)を実践なされたのでした。
そんな高潔で慈悲深い様子が、磯田先生の書物ではよく描かれています。
四十一歳で、弟子であるの医師金束信甫(こづかしんぽ)に招かれ、下野国佐野に住むようになりました。
そこで信甫の家の泥月庵(のち知松庵)で塾を開き、二十数年にわたり陽明学や『伝習録』をわかりやすく講義したのでした。
磯田先生の『無私の日本人』には、中根東里が、須藤温という少年に陽明学を語る感動的な場面があります。
磯田先生の本から引用させていただきます。
「『聖人の学は、なにも難しいものではない。ただ、ひとつのことがわかればよい』戸板をなぎ倒すような迫力で、東里はそういった。
天地万物一体の理がわかれば、それでよい、というのである。
『聖人の学というのは、煎じつめれば、仁の一字につきます。
仁とは天地万物一体の心のことです。
義も礼も智も信も、みな、そのなかに含まれます。
たしかに、一見すると、宇宙の森羅万象はさまざまで、とても、ひとつのものにはみえません。
しかし、考えてください。
この宇宙の物は、みな天地の気をうけて生じてきたものです。
そういう意味で、一体であるといえる。
天から日の光がそそぎ、雨がふると、山に草木が野に穀物が生じるでしょう。
そこから、鳥や獣や人が生まれてきました。
ですから、父子・兄弟から天下後世の人にいたるまで、みな我が骨肉です。
日も月も、雨も露も、山も川も、草木も、鳥獣も、魚もすっぽんも、一物として、我でないものはない。
天地万物は一物です。
このあたりまえのことに立ち戻るだけでいいのです。
それほど、聖人の学は広大にして簡単なものなのです』」
というのです。
禅寺からは離れて行った中根東里でしたが、その説かれているところは禅に一致するのであります。
更に、中根東里は弟の娘芳子を引き取って養育することになりました。
弟は、結婚して子をもうけたものの、妻が病で亡くなり、それでも何とか芳子を育てていたのですが、十分育てることができずに、三歳の芳子は死に瀕していました。
その芳子を東里は、懸命に世話をして育てたのでした。
東里は、ほとんど書物を残さなかったのですが、この芳子のことを書き綴った漢文の書物『新瓦』のみが残されたというのです。
磯田先生の本によると、その本は驚くべき漢文の名文だそうです。
四歳になった姪に、噛んで含めるように東洋の思想の精髄を教えようとしたものだったのでした。
鍵山先生と重なるような高潔な人格の中根東里なのです。
横田南嶺