自らを調え、安寧を祈る
ところが、ただいまはそういうことができませんので、ここで、『法光』の春彼岸号に書いた内容を紹介させていただきます。
題は、「自らを調え、安寧を祈る」というものです。
昨年の秋に取材にきてもらって話をしたものです。
五つの章に分かれています。
一、怨親平等のこと
二、新型コロナウイルス禍の只中で
三、生活を調える禅の智慧
四、真剣に、しかしとらわれず
五、祈りながら生きる
というものです。
第一に、円覚寺開創の精神とも言われる「怨親平等」について語っています。
円覚寺はご承知のように、元寇が終わった翌る年の弘安五年に開山されています。
そのときに開山仏光国師は、戦った敵である元の兵士も、日本の兵士も区別せずに平等に供養されました。
敵味方平等に供養することを「怨親平等」と申します。
この心は日本において古くからあったものです。
須磨寺にもゆかりの深い平敦盛と熊谷直実の話もそうです。
源平の戦いの為やむなく、当時まだ十七歳であった敦盛を直実は斬首しました。
その後、直実は法然上人のもとで出家して、敦盛を懇ろに供養しました。
日本では、それまでも亡くなった御霊の祟りを恐れて供養していましたが、仏光国師は、華厳の思想によって敵も味方も区別なく、毘盧遮那仏の慈悲のもとには平等であるという心で、供養されました。
もともと仏典では、身内も他人も平等に接するという意味であった「怨親平等」の言葉を、敵味方共に供養するという意味で、用いるようになったのは、この仏光国師でありました。
それからというもの、怨親平等の言葉は敵味方平等に供養する意味として用いられています。
敵味方を分ける見るのは、自分中心の誤ったものの見方なのです。
第二に、「新型コロナウイルス禍の中で」と題して、コロナ禍では、同様に敵を攻撃することが強くなったことに触れました。
もっともウイルス自体が、人間よりも古くから地球に存在しているものです。
ウイルスどころか、感染した人やその家族まで攻撃してしまうこともありました。
これらも自分中心のものの見方であります。
敵と味方というように、二元的にものを見ると我見(偏った見方)になってしまいます。
「正しいと思うことすら我見ですから、常に間違いに気づく永遠の営みが正見です。」と示しておきました。
私たちの世代にとっては初めてのウイルスでありますから、いくら見通しを立てようとしても、思うようにはゆきません。
急いで答えを見いだそうとするよりも答えのないまま、そこに止まり続ける事も必要で、ネガティブケイパビリティという言葉を紹介しました。
ネガティブケイパビリティとは、「答えの出ない境遇に留まり続ける力」のことです。
「敵をつくり、安易に言葉を見繕えば、ひとときの心の平穏を得たように思いますが、本当の解決には至りません。
わからない中に佇み続け、安易に結論を出さないことが新型コロナウィイルス禍に生きるコツではないかということだと思います。」
と書いています。
そういう現状を踏まえて、
第三に、「生活を調える禅の知恵」と題して、『天台小止観』で説かれる「調五事」について触れました。
食事を調える、睡眠を調える、身体を調える、呼吸を調える、心を調えるの五つであります。
「坐禅の時だけでなく、栄養のバランスの取れた食事と十分な睡眠を摂ることが土台となるよう、暮らしを調えることが肝要だということです。
詩人の坂村真民先生は九十七才まで詩を作られて、毎日午前零時起床を続けられたそうですが、ご家族に伺うと午後三時頃に軽くパンを召し上がられて夕刻には就寝されていたそうです。
松原泰道師も御遷化される三日前までお話しされていました。
午前二時に起床されていましたが、午睡(昼寝)を摂って午後七時前後には就寝されていました。
日本人は睡眠を削ることを美徳とする風潮がありますが、食べることと寝ることの土台があるからこそ、健康な身心ができるのだと思います。」
と書いています。
睡眠は認知症にも大きく関わってくることが分かってきています。
若いときに睡眠を削って修行することはよろしいでしょうが、あまり無理なことを継続してしまうと、後で支障が出てくることもあるようです。
無理のない精進が肝要です。
第四が、「真剣に、しかしとらわれず」という章です。
コロナ禍にあって、今まで力を入れてきた法話や坐禅会などがほとんど無くなってしまいました。
子どもが一生懸命に波打ち際に砂山を築いたと思ったら、一瞬のうちに波によってすべてさらわれたようなものです。
「子供の遊びのように、やるときはとことん真剣に、「人生はニコニコ顔で命がけ」という京都大学元総長の平澤興先生の言葉がありますが、手放すときは即座に手放すことができる軽さを持ち合わせることが必要です。」
と書きました。
そしてYouTubeで法話を始めたことに触れて、今までよりも多くの方にご縁ができ、今までご縁のなかった方にもご縁を結ぶことができるようになったことを書きました。
なかでもあるご夫人からいただいた手紙の一部を紹介しています。
「主人が亡くなって、目が見えない寝たきりの姑の食事やトイレの世話を毎日やっています。時々帰ってくる義姉にいろんなことを言われては、悔しさや虚しさに耐え忍んでいる毎日です。この頃、管長様のYouTubeを知って、畑の隅のドクダミを収穫し、乾かして煎じて自分でのんだりお客にも出しています。ドクダミを目の敵にするひとも多いが、煎じて飲めば美味しいものです。どの生きものも仏の性質をもっているという考えが仏教の根幹ですから、どんなものでも敵と決めつけず、見方を変えてみましょう。
という内容の法話を拝聴し、感動しました。姑を仏と思ったら、日々の世話が苦痛でなくなりました。気づきを与えてくださり、本当にありがとうございます。」
という手紙でした。
こうして新たなご縁も結ばれるのでありがたいことでもあります。
第五は、「祈りながら生きる」という題です。
ここでは、二通の手紙について紹介しています。
まずは、とある静岡県の方からお手紙です。
「八月のある日に近所の寺を訪ねました。玄関に「墓地におります」と書置きがあったので、和尚様を探して墓地に行きました。すると法衣に袈裟をつけて、汗だくでお墓一基ごとにお経を読んでくださっていました。あまりにも尊くて声を掛けずにいましたら、真夏の太陽に照らされて後光が差しているようでした。こうした心で生活している和尚様がいらっしゃることは何と尊いことかと感動しました。円覚寺で御修行された和尚様と伺いましたので、お手紙を書かせていただきました。」というものです。
それから、教師の方からの手紙を紹介しています。昨年の夏のものです。
「新型コロナウイルスの影響で、夏休みが短くなり、残暑の中で授業が再開しました。生徒が下校後に、机すべてをアルコール消毒しています。果たして意味があるのだろうかとも思いますが、どの生徒も新型コロナウイルスに感染することがないようにという教師の祈りだと思います。」
という手紙の内容です。
そして、「こうした目に見えないところで祈ることの大切さ」を書いています。
最後には、鈴木大拙先生の言葉を紹介して終えています。
ほんとうの祈りというものは、叶うても、叶わんでも、むしろ叶わんということを知りつつ、祈らずにおられんから祈るというのがほんとうの祈りで、祈るから叶うという相手に目的をおいて祈るのでは、ほんとうの祈りではない。(『鈴木大拙一日一言』致知出版社刊より)
横田南嶺