花をみてほほえむ
「已むを得ざるにせまりて、而る後にこれを外に発するものは花なり」
という言葉があります。
越川春樹先生の、『人間学言志録』の訳によると、
「やむにやまれなくなって蕾(つぼみ)を破って咲くのが花である」
となっています。
越川先生は、
「花は人に見てもらうために咲くのではない。蜂や蝶のために咲くのでもない。木や草の精気がやむをえず外に発して自然に咲くのである」
と説かれています。
やむにやまれぬとは、『広辞苑』によると、
「止めようとしても止められない。そうするよりほかない。」という意味であり、「やむにやまれぬ思い」というように使われると解説されています。
「やむにやまれぬ思い」といっても、決して単なる私情ではありません。
同じ『言志録』に、
「雲やもやは決して作ろうとして作ったものではない。空気中の水蒸気がやむをえず自然に凝結して生じたものである。
同時に風雨もやむをえずして発生するものであり、雷もやむをえずして轟きわたるものである」
という意味の言葉もございます。
ここにやむをえず自然にというのは、もちろん私情であろうはずはなく、天地大自然の、やむことのないはたらきであります。
二宮尊徳翁に、
天地(あめつち)の 和して一輪 福寿草
さくやこの花 幾代経るとも
という和歌がございますが、天地自然のやまざるはたらきが、みな調和してこの一輪の福寿草が咲くのであります。
花が咲くというと、禅門では「拈華微笑(ねんげみしょう)」という言葉がございます。
これは禅の書物である『無門関』に出てくる話です。
禅の起こりであるとも言われるものです。
お釈迦様が亡くなった後、教団を率いていったのは、迦葉(かしょう)尊者でありました。
迦葉尊者は、バラモンの出身で、妻と共に出家してお釈迦様の弟子となりました。
十大弟子の中でも、「頭陀(ずだ)第一」と称せられたのでした。
頭陀とは、もと「ふるい落とす、はらい除くの意」であり、そこから、「煩悩の塵垢(じんく)をふるい落とし、衣食住についての貪り・欲望を払い捨てて清浄に仏道修行に励むこと」(岩波『仏教辞典』より)を表しています。
頭陀行には、人家を離れた静かな所に住することや、常に乞食を行ずること、一日に一食のみすることなどがあげられています。
ほかにも、常にボロ布で作った衣のみを身につけるとか、墓場や死体捨て場にすむことや、常に坐して横にならないなどといった行もあるのです。
迦葉尊者という方はこれらの頭陀行を忠実に行っていたので、「頭陀第一」と讃えられたのでした。
お釈迦様の弟子は、基本的には捨てられたボロ布を集めて縫い合わせて身にまとまったのでした。
しかし、信者からの施しであれば、新しい布を縫い合わせて身につけてもよかったのです。
しかし頭陀行に徹していた迦葉尊者は、頑なに捨てられた布を縫い合わせたボロの衣を身にまとっていました。
そんなボロ布を着ている迦葉尊者を、いつしか仏弟子たちは、軽蔑するようになっていました。
ある時に、お釈迦様がお説法の座に坐られて、その座席を半分空けられて、迦葉尊者に坐るよう勧められました。
そして、お釈迦様は、迦葉尊者こそ仏陀に等しい境地に達していることを皆に説き示しました。これが「半座を分かつ」という言葉の由来であります。
さて、「拈華微笑」でありますが、ある時お釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)に於いて、いつものと違って一言もお説法なさらずに、ただ一輪の花を手に取って大衆に示されました。
お釈迦様のお説法を拝聴しようと集まった弟子たちには、いったい何の事やらさっぱり分かりません。
ただ、迦葉尊者のみが、「破顔(はがん)微笑(みしょう)」したのでした。
「破顔」というのは、「顔をほころばせて笑うこと。にこやかに笑うこと」です。
恐らく、頑なにボロ衣を身にまとい、頭陀行第一と言われた迦葉尊者ですから、普段微笑むようなことはほとんど無かったことでしょう。
そんな修行一途の迦葉尊者が、その厳しい顔をほころばせて笑ったのでした。
お釈迦様は、それをご覧になって、自分の教えはすべて迦葉に伝わったと言われました。
この逸話が、禅の起源とされているのです。
「花をみてほほえむ」、これが禅の始まりなのです。
西田幾多郎の『善の研究』に、
「我々が物を愛するというのは、自己を棄てて他に一致するの謂である。自他合一、その間一点の間隙なくして始めて真の愛情が起こるのである」
という言葉があります。
「我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。」とも説かれています。
やむにやまれぬ天地の働きが花ひらいているのとひとつになって、迦葉尊者もまた、やむにやまれぬ天地の働きで破顔微笑されたのでした。
この時の霊鷲山では、お釈迦様と迦葉尊者と一輪の花とが、ひとつになってほほえんでいたのです。
このひとつになった世界こそが禅が大切にしているところです。
春の花が咲き始めています。
迦葉尊者のようにはなれずとも、花とひとつとはいかずとも、まずは花をみてほほえんでみましょう。
天地の大きなはたらきと通じるものが感じられることでしょう。
横田南嶺