禅ってなんですか?
そんなことを聞かれても、知りませんと答えるしかありません。
いつのことだったか、どこだったかも忘れましたが、同じ質問をいただいて、「それが分からないので今も坐禅をしています」と答えたことがありました。
その時には、納得いただいたように覚えています。
クラブハウスとかいうものがあるそうなのです。
そういえば、先日新聞の記事に載っていたのを見た覚えがあります。
まず自分には関係ないことだと思って、詳しく記事を読みませんでした。
いろんなものができているのだなと思っただけでした。
そのクラブハウスとやらに、このたびお招きいただくということになりました。
はてさて、どんなところやら、楽しみでもあり、不安でもあります。
細川晋輔老師と小池陽人和上とがご案内くださるというので、お引き受けしたのであります。
二十八日の午後に催されるとのことです。
そのテーマが、なんと
「禅ってなんですか?」
というのです。
これは困ったと、お引き受けしたことを今になって後悔しています。
人選も間違ったのではないかと思います。
禅ってなんですかと聞けば、たくさん答えてくれる方もきっといらっしゃるでしょう。
思うに、禅って不思議であります。
おそらく、十人の禅僧がいて、それぞれ禅ってなんですかと聞けば、それぞれの答えが聞かれることでしょう。
十人いれば、十人の禅があると言ってよいでしょう。
いや、同じ一人の人間でも、今禅とは何か、答えることと、数年後に答えることとはまた異なってくるでしょう。
同じ時であっても、聞く人によっても、その答えは変わってくるでしょう。
はてさて、私はなんと答えたものか、困った、困ったといううちに時間が過ぎてしまうことを願っています。
湊素堂老師のお話を思い起こしました。
こんな話でもしてみようかと思います。
湊素堂老師は、建長寺の管長と僧堂師家を十八年お勤めになって、そののち建仁寺の僧堂師家となり、さらに建仁寺の管長にも就任された方です。
私は、建仁寺の僧堂でお世話になりました。
その素堂老師の『鎌倉十八年』という本がございます。
そのなかに、「禅の昧」という文章が載っていいます。
これもまたすばらしい文章なのです。
素堂老師は、建長寺にお入りになるまえには、和歌山県の串本にある無量寺というお寺の住職を務めていらっしゃいました。
そのころに、串本の方から、「和尚さん、私達のお寺は禅宗だそうじゃが、禅てむつかしいんじゃろう」と言われたそうです。
訳のわからぬ、むずかしいことを禅間答みたいじゃないかとよく人に言われます。
地元の方に禅とはどのようなものか分かりやすく説明することは難しいことです。
しかし素堂老師は、
「何ぞ知らん、禅とは皆さんの足もとにころがっているのです。いや皆さんの生活の中にあると言った方が当っているでしょう」
と言われます。
どういうことかと言いますと、こういう分かりやすい例を出されています。
たとえば「お裁縫に夢中になっているうちに、おひる(食事)の支度をする時間がとっくに過ぎていた。とか」。
あるいは「(ここまで草刈らんならん〉と精出していて、フト、背のびした瞬間に、おなかがすいたのに気がついた。
と、こんな無我夢中の心の状態に禅の匂(におい)がただよっております」
というのです。
老師は更に「いやまさにこれこそ禅味満喫の姿なのであって無心の心境になり得た人は、禅の体験者であると云ってよろしいと思います」
とまで仰せになっています。
更に「禅と云う言葉は印度の言葉(発音)がそのまま漢字になったもので、
無我無心に通じる〈静かに思う〉という意味でありますから、禅という言葉は知らなくとも、
実際にそんな心境になり得る人は誰でも禅を心得た人と云うわけです。こんな言葉を何かで読んだことかあります。
「人間として最も美しい姿は、それぞれの人がその職業にふさわしい服装で、自分の仕事に打ち込んでいる時である」と
一心不乱に正業に打ち込んでいる時は、力強い、人の命の生きがい、よろこびをかみしめることが出来るのでしょう。
その打ち込んだ姿が正に禅の姿なのです」
というのであります。
そのあとに、
「最近農村の危機が叫ばれていますが、此の間こんな新聞の投書記事をよみました。」と書いて、とある新聞の投書を紹介されています。
「強い雨の中を田植えの準備のため、あぜや土手の草刈りをする。とぎ立てのカマの切れ味がこころよく、一生懸命仕事をつづけた。
ふと気がつくともう日暮れである。
そろそろ仕事をやめようと思う。
ふと心の中を満足感がよぎる。
『ああ、今日一日私は一生懸命やったのだ』という喜び…………」
茨城県で農業を営む十九歳の方の投書だそうです。
この投書を引用されて素堂老師は、更に
「十九歳の乙女、習はずして禅を体得すとでも言うべきでしょうか。
禅語に『日々好日』というのがあるが、この女(こ)がこれを聞いたら、はち切れる両ほほにえくぽを浮べてコクリとうなずくに違いないでありましょう。」
と書かれているのです。
雨の中で、雨にずぶ濡れになりながらも、このようにひたすら打ち込んでいれば、雨も苦にならないでしょう、いや雨に打たれていることも忘れるのでしょう。
降る雨も打たれる自分も無い、ただ一つに打ち込んでいる、
そんな姿にこそ、生きた「禅」があるのでしょう。
武者小路実篤さんが
「一番深いところかくる 純粋な喜びを感じつつ 毎日の仕事を 悠々とやっていきたい まず自分のすることをして 今日も無事に有益に 一日を過ごせたことを 心ひそかに喜びたいと思う」
と言われていますが、こんな喜びを感じながら、一日一日自分のなすべきことを誠実に心を込めてなしてゆく、そんな暮らしが強いていえば「禅」なのかと。
そんなことでも話をしようかなと思っていますが、さて、初めてのクラブハウスとやら、どうなることやら……
横田南嶺