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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.28
今日の言葉

「よし来た」とは言えぬ人生

致知出版社からは、私も何冊も本を出させてもらっています。ご縁の深い出版社であります。

人間として如何に生きるべきか、人間学を学ぶ月刊誌や書籍を出している出版社です。

致知出版社は、毎年新春講演会を催しています。

私も数年前に登壇したことがあります。

その時は、ノーベル賞を受賞された大村智先生の講演で、私はその前座でありました。

毎年千数百名もの受講者がいる盛況な講演会です。

今年は、さすがにコロナ禍で、そんな大勢の講演会の開催はできず、オンラインで行われました。

私は、その講演会の中の企画のひとつで、「新春特別シンポジウム」に登壇させていただきました。

アサヒビール社長やNHK会長を歴任されたの福地茂雄先生と、カトリックシスターの鈴木秀子先生と、私との三人で語り合うという企画でした。

そのシンポジウムの内容を、今ご覧いただくことができますので、ご紹介させていただきます。

お時間のある時にでもご覧ください。

前編と後編と二回にわたって紹介してくださっています。

・〈前編〉人間力を高める「新春特別シンポジウム」福地茂雄×鈴木秀子×横田南嶺

・〈後編〉人間力を高める「新春特別シンポジウム」福地茂雄×鈴木秀子×横田南嶺

その鼎談の中で、印象に残っていることがあります。

司会をしてくださった、致知出版社の藤尾允泰さんが、私に向けて次のようなことを言われたのでした。

「以前、弊誌の対談取材の中で、横田先生は趙州(じょうしゅう)和尚の「恰好」(かっこう)のお話をされました。この教えも困難な状況の中でとても参考になる、指針となるような教えではないかと思います」

というのでした。

この鼎談は、あらかじめ質問事項が決まっていましたので、それらの答えは用意していたのですが、こういう突然の問いかけに応対するのは、難しいものです。

私も一瞬、これはどう答えるか難しい、言葉を選ばなければならないと思いました。

私がその時、何と答えたのか、紹介されている記事を参照してみると、

「どんなことが起こっても、どんな困ったことがあっても「恰好」、つまり「よし来た!」と受け止める、これはとても大事な心構えです。

ただ、このコロナ禍は、「よし来た!」とは思われませんね(笑)。早く収束してほしいというのが切実なところでございます」

と答えています。

司会者の方の言葉を受けとめておきながら、それだけではいけないということを伝えたかったのでした。

では、まずその対談取材した時の話を紹介します。月刊『致知』2018年7月号に掲載されたものです。

これは、天台宗の円融寺住職阿純章さんと対談した時のことでした。

阿さんが、

「きょうはせっかく横田老師にお目にかかったので、私が一番好きな禅語についてもお話ししたいと思います。

それはたった二文字、「恰好」という言葉なんです。

横田老師もご存じのとおり『趙州録』に出てくる言葉で、趙州老師が弟子から「大困難が訪れた時に老師はどうなさいますか?」と問われた時、「恰好!」(よし来た!)と答えたそうですね。

どんなことが起きても「よし来た! 自分にピッタリの困難がやってきたぞ」と受け止めて生きる。

この言葉を私は大切にしています」

と語ってくれました。

それに対して私は、

「恰好、よし来たと。まさに人生の極意ですね」

と答えています。

さらに阿さんは、

「その言葉から思い出すのは、はじめ塾という私塾を創始された和田重正さんの本に出てくる鳶職の方のお話です。

鳶職でも間違って木から落ちてしまうことがたまにあるそうなんですが、そんな時は自分から降りてしまうんだと。

怖いと思って目を背けると怪我をするけれども、自分から降りて地面から目を離さないでいると、怪我が少なくてすむというんです。

それはまさに「よし来た!」という気持ちにも通じるお話ではないかと思うんです。
 
ですから私も、何か大変なことが起きたら、たとえ不安でいっぱいでも、「よし来た!」という気持ちで向かって行こうと思っているんです」

と仰ってくれたのでした。

この話を司会の藤尾さんが覚えていてくれたのです。

有り難く嬉しいことであります。

ここで問題にしなければならないのは、自分一人の身に降りかかった困難であれば、何事であろうと「よし来た」と受けとめていいでしょう。

しかしながら、今回のコロナ禍というのは、私一身のことではありません。

この困難のことのために、大切なお身内の方を亡くされて、今も悲しみにくれている方もいらっしゃることでしょう。

仕事を失ってしまって、明日からどうしようか悩み苦しんでいる方もいらっしゃるでしょう。

休みも取れずに働いている医療従事者の方もいらっしゃることでしょう。

そういう方々もいらっしゃる中で、お寺の中で諸先生方と対談しながら、「よし来た」と言っているようでは、考えものなのです。

まず、その多くの方の痛みを感じることが大切であります。

こんな時には、「よし来た」というよりも、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にある一節の気持ちが相応しいと思います。

日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい

どうしようもない時、みんなが困って苦しんでいる時、自分もどうしようもなくて、涙を流し、おろおろと歩いている、それが大切だと思います。

そこで、多くの人たちの気持ちになって、「このコロナ禍は、「よし来た!」とは思われませんね」と申し上げて、そのうえで、「早く収束してほしいというのが切実なところでございます」とシンポジウムの言葉になったのであります。

そのうえで、自分自身としては、次の言葉を思っています。『言志録』にある言葉です。

「凡そ遭う所の患難・変故・屈辱・讒謗・払逆の事は、皆天の吾が才を老せしむる所以にして砥礪切磋の地に非ざるは莫し。

君子は当に之れに処する所以を慮るべし。

徒らに之を免れんと欲するは不可なり」

という言葉です。

越川春樹先生の『人間学言志録』の訳文を参照しますと、

「すべてわれわれが人生の行路において出会うところの、苦しみ、悩み、突然の変事や人から辱めをうけること、人からそしられること、自分の思うようにならないことなどは、みんな天が自分の才能を成熟させようとするものであって、いずれも自分の修養に資するものでないものはない。

だから君子は、このようなことに出会ったならば、これにいかにして善処すべきかということを真剣に考えるべきで、これから逃れようとしてはいけない」

という意味です。

これも決して、人に対して、今の困難はあなたを成長させるものだと言うのではなくて、どこまでも自分が自分自身に対して言い聞かせる言葉であります。

そんな次第で、まだしばらく続きそうなコロナ禍でありますが、オロオロ歩きながらゆこうと思っています。

 
横田南嶺

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