三十年
これは寺田一清先生に、直接円覚寺にお越しいただいて、ご指導してもらってから続けています。
『修身教授録』は、森信三先生が、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)で講義されたものをまとめたものです。
教師になる生徒たちの為の講義ですが、教育のみならず、人間として如何に生きるべきか、素晴らしい叡智がこもっています。
もっとも、私たち僧は、いわば人生の教師になるべき立場でありますから、教師になるということと無縁では決してありません。
読書会は、輪読の形式で、一人ずつ一段落を声に出して読みます。
そうして、一章を皆で読み終えたなら、各自一人一人、どこの箇所に感動したか、何をどう思ったかについて手短に発表します。
一通り発表が終わると、最後に私が総評をします。
それだけのものなのです。
それでも一人で読むのとはまた異なる学びがあるものです。
先日も僧堂で勉強会を開いていて、今まで読んだ書物の中で、心打たれたことについて話し合いました。
ある修行僧が、『修身教授録』の中の「三十年」という一章が心に残っていると言いました。
それを聴いて、私は昨日もご紹介した、致知出版社の『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』のことを思い起こしました。
この本は、一年三六五日、優れた人の話を紹介しているものです。
三六五日は順不同なのですが、しかしながら、始めと終わりに誰のどの話をもってくるかは、編集者も十分考慮されることでしょう。
巻頭の一月一日は、稲盛和夫さんであります。
松下幸之助翁と共に経営の神さまとも称せられる方であります。
致知出版社が、巻頭にもってくるのはよく理解できます。
それから、十二月三十一日、掉尾を飾るのが、森信三先生であります。
しかも、「人生は正味三十年」という題なのであります。
僧堂の一修行僧が、選んだ話と、致知出版社が、長年にわたり森信三先生についての膨大な著作を世に送り出しておいて、その叡智を集めて選んだ話とが一致したのでした。
偶然とはいえ驚きました。
三十年というのは、どういう意味かというと、
森先生が、まず「私が、この人生に対して、多少とも信念らしいものを持ち出したのは、大体三十五歳辺からのことでありまして、それが多少はっきりしてきたのは、やはり四十を一つ二つ越してからのことであります。」
と語っておられます。
そして、「もし今年から三十年ということになると、七十三歳になるわけで、そうなるとまず肉体的生命の方が先に参ってしまいそうです。
このように考えて来ますと、人間も真に充実した三十年が生きられたら、実に無上の幸福と言ってもよいでしょう。」
というのです。
「このように人間の一生は、相当長く見積ってみても、まず七十歳前後というところでしょうが、しかしその人の真に活動する正味ということになると、まず三十年そこそこのものと思わねばならぬでしょう。」
というのが、「三十年」という言葉に込められた思いです。
「ただ漠然と「人間の一生」だの「生涯」だのと言っていると、茫然としてとらえがたいのです。
いわんや単に「人生は――」などと言っているのでは、全く手の着けどころがないとも言えましょう。
そうしている間にも、歳月は刻々に流れ去るのです。しかるに今「人生の正味三十年」と考えるとなると、それはいわば人生という大魚を、頭と尾とで押さえるようなものです。」というように親切に説かれています。
私などは、「三十年」というのが漠然としていて、禅は「今日只今」だと思いたくなるのですが、これもまた抽象的になりがちであります。
「三十年」という実感のこもった言葉に意味があるのです。
森先生は、更に
「道元禅師は「某は坐禅を三十年余りしたにすぎない」と言うておられますが、これは考えてみれば、実に大した言葉だと思うのです。
本当に人生を生き抜くこと三十年に及ぶということは、人間として実に大したことと言ってよいのです。」
と仰っています。
道元禅師の言葉の出典は分からないのですが、味わいのある言葉です。
三十年という実感のこもった言葉を通して、この「二度とない人生」をどう生きるかを考えるべきなのだと思いました。
禅の世界でも「更に参ぜよ、三十年」という言葉をよく用います。
三十年勤めると、どんな人でも、なにかものになるのでしょう。
馬祖道一禅師が、師の南嶽禅師のもとを去ってしばらくして、南嶽禅師が馬祖がどのような説法をしているのか、僧を派遣して調べさせました。
馬祖は、その僧に対して、「胡乱にしてより三十年、未だ塩醤の喫を欠かず」と答えています。
うかうか暮らして三十年、どうにか塩や醤油に事欠いてはいませんというところでしょう。
この三十年にも趣があります。
道にかなった暮らしを三十年続けてきた自負がうかがえます。
もちろんこと、三十年といっても単にぼんやり暮らしていたのでは何にもなりません。
そこには「人生二度なし」という真剣さが無くてはなりません。
森先生は、『修身教授録』の中の「人生二度なし」という一章で、
「われわれは、わずか一日の遠足についてさえ、いろいろとプランを立て、種々の調査をするわけです。
しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしていると言えるでしょうか。
否、それどころか、この「人生二度なし」という、ただこれだけのことさえ、常に念頭深く置いている人は、割合に少ないかと思うのです。」と仰っています。
森先生は、「人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないと思うのです。」とも言われています。
それはどういうことかというと、
「生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びても、ちょうど鐘の余韻が嫋々として残るように、その精神は必ずや死後にも残ることでしょう。」というのです。
『禅関策進』で慈明禅師が、
「生きて時に益無く、死して人に知られずんば、理において何の益か有らん」と言われた言葉を思い起こします。
これは単に名声を求めるという浅い意味ではなく、森先生の説かれるように、その死後においても、その方の志、精神が語り継がれるようになるということでしょう。
それくらいの高い志をもって、「三十年」を務めるのだということです。
森先生が説かれた頃は、人生七十年という時代です。
今や人生百年の時代です。
更に更に三十年と思って自ら鞭打たねばならないと思います。
横田南嶺