山頭火のまごころ
まだ山頭火の存在がそれほど世に知られていない頃でした。
それで、当時の国語の先生が、私に対して、
「国語の教師も知らないような本で感想文を書いてもなにもならぬぞ」
と言われたのでした。
私は高校生ですが、この先生の言葉は賢明でないと思いました。
自分の無知を反省せずに、単に知らないからといって、このようなことを言うのはいかがなものかと思ったのです。
世の中には自分の知らないことはたくさんあるのです。
しかしながら、その私の感想文が、その年の和歌山県で表彰されたのでした。
その時に、私は見る人は見てくれるのだと思ったのでした。
山頭火はその後、テレビなどにも取り上げられて知られるようになりました。
しかし、山頭火という人物は、世に思われるような、「立派な人」ではありません。
実際には、自身の句
どうしようもないわたしが歩いている
という句の通りだと思います。
僧となっていますが、曹洞宗の正規の修行をなされたわけでもなく、寺の住職になったというわけでもありません。
遍歴放浪と言いますが、元来は師を求めて禅の修行の為に行脚したのですが、それともまた異なります。
酒に酔い、失敗も繰り返すのです。
本人も決して人に放浪を勧めたわけではありません。
それでも、その愚かさを自ら認めながら、正直に心情を吐露する句が、却って人の心を打つのです。
「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。
分け入っても分け入っても青い山」
という句はよく知られています。
生死の中の雪ふりしきる
笠にとんぼをとまらせてあるく
まっすぐな道でさみしい
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
まったく雲がない笠をぬぎ
酔うてこおろぎと寝てゐたよ
昭和六年、熊本に落ちつくべく努めたけれど、どうしても落ちつけなかった。またもや旅から旅へ旅しつづけるばかりである。
自嘲
うしろすがたのしぐれてゆくか
鉄鉢の中へも霰
雨ふるふるさとははだしであるく
空へ若竹のなやみなし
ころり寝ころべば青空
何を求めて風の中ゆく
山へ空へ摩訶般若波羅蜜多心経
もりもりもりあがる雲へあゆむ
こんな句を作られています。自由律俳句というのです。
また、次のような言葉も残されています。
「天われを殺さずして詩を作らしむ
われ生きて詩を作らむ
われみづからのまことなる詩を」
というのです。
一途に句作に励んだことがわかります。
「山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし」
という言葉には自在な心境も垣間見えます。
致知出版社から上梓された『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』という本があります。
致知出版社が四十二年間にわたり取材編集を続けてきて、その中から一年三六五日の佳話をまとめたものです。
私の文章も載せてもらっています。
仕事の教科書というように、社会で働く為の叡智が多いのですが、種田山頭火のことを書かれた一話もございます。
大山澄太先生が、1987年『致知』六月号にインタビュー記事として掲載された話だそうです。
大山澄太先生の名前を見て、懐かしく思い起こしました。
私が山頭火のことを調べていた頃には、大山先生の本の他にわずかの書籍しか出ていない頃でした。
大山先生の本は、一番参考にさせてもらったのでした。
そこで、高校生の頃に、山頭火の『草木塔』で読書感想文を書いて表彰されたので、その感想文を大山澄太先生にお送りしたのでした。
大山先生からはご丁寧なお礼状をいただいて感激したことを覚えています。
致知出版社の本には、大山先生が山頭火の庵に泊まった話が書かれています。
仕事の話があって、山頭火の庵を訪ねたそうです。
お酒を持ってゆき、夜まで話が弾みました。
そろそろ帰ろうとすると、山頭火が、是非とも泊まってゆけと言うのでした。
「澄太君、すまんが長い間、人間と一緒に寝ておらんので、寒いぼろの庵だが、ここへ泊まってくれ」
というのです。
自由律俳句の先輩にあたる山頭火が是非と言うので、大山先生は泊まることにしました。
ところが、蒲団がひとつしかないのです。
山頭火は、「君が泊まるので嬉しいから寝ずに起きとる」と言います。
大山先生は、蒲団に入ったものの、寒くて眠れません。
「どうも寒くて眠れそうにない」というと、
「すまんことだ」と言いながら山頭火は押し入れから夏の単衣を出して掛けてくれたのですが、まだ寒いのです。
紐の着いた物を持ってきたので、何かと思ってみると越中ふんどしでした。
それを大山先生の首に巻こうとしたので、さすがに断ったそうです。
これなども、山頭火にはまったく悪気はないのです。
一つあれば事足る鍋の米をとぐ
という句もあるように、一つの鍋で、煮炊きもすれば掃除もするような暮らしだったのです。
そうこうするうちに、大山先生も眠ってしまいました。
それから次のように書かれたことが胸を打ちます。
「東側の障子がわずかに白んだ夜明けの四時頃だろうか、私はふと目が覚めた。
山頭火はどこかとこう首を回して探すと、すぐ近いところで僕のほうを向いて、じーっと坐禅を組んでいる。
その横顔に夜明けの光が差して、生きた仏様のように見えましたなあ。
妙に涙が出て仕方ない。
私は思わず、彼を拝んだもんです。
さらによく見ると、山頭火の後ろに柱があり、その柱がゆがんでいる。
障子を閉めても透き間ができ、そこから夜明けの風が槍のように入ってきよる。
それを防ぐために山頭火は、自分の体をびょうぶにして、徹夜で私を風から守ってくれたのです。
親でもできんことをしてくれておる。
私はしばらく泣けて泣けて仕方がなかった。」
というのであります。
そこで大山先生は、
「こういう人間か、仏か分からんような存在が、軒に立てねば米ももらえんし、好きな酒も飲めん。
その時私は月給の四分の一を山頭火に使ってもらうことに決めました。山頭火が死ぬまでそうしました。」
と書かれていますように、生涯山頭火を支え続けられたのでした。
確かに山頭火の生涯というのは、人から褒められるようなものでもなく、まねるようなものでもありません。
しかし、こんな一途なまごころがあるので、その一句一句が人の心を打つのでしょう。
大山先生の山頭火についての文章を拝読して、もう四十年以上前に、『草木塔』の感想文を大山先生にお読みいただいたことを思い起こしました。
そして、山頭火のあたたかいまごころに触れることができました。
今の世に忘れてはならないものであり、思い起こしたいものです。
横田南嶺