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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.23
今日の言葉

不平等の中で

禅文化研究所で発行している季刊誌『禅文化』二五九号では、「コロナ禍の今を生きるー禅からの提言」と題した特集が組まれています。

恐れ多くも、その特集の巻頭に、私の拙い文章を掲載してもらっています。

「不条理を生きる」と題して書いています。

その中に、私の得度の師である小池心叟老師と、とある青年との出会いについて書いています。

少々長くなりますが、引用します。

「戦後間もない頃、都内の禅寺をある青年が訪れました。

禅寺とはいえ、本堂も書院も戦災で焼けてしまい、焼け跡にバラックのみが建つという有様でした。

その頃、まだ三十代の東京地方裁判所の判事が餓死するという事がありました。

その当時は、配給の食料だけでは生きてゆけず、闇市の食料に手を出さなければならないような状況だったのです。

その判事は、法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたため終に餓死したのでした。

禅寺を訪ねた青年は、世の中はなぜこんなに不平等なのかと悲憤慷慨していました。

法律を守りまじめに生きようとする者が餓死してしまい、その半面法律に背く闇市で儲けを得ていい思いをしている者もいる、世の中はなぜこんなことが起きるのであろうかと。

そんな不満をもって禅寺を訪ねたのでした。その寺にはまだ京都の修行道場を出たばかりの禅僧がいました。

 
不平等な世の中への不満を吐露する青年に、対して禅僧はただ一言、「不平等なり」と一喝しました。

 たった一言でしたが、世は不平等なのだ、その中で生きるしかないのだ、愚痴をいう暇があれば前を向いて生きよと言いたかった禅僧の思いが、その青年に伝わりました。

青年は、その一言で目が覚めた思いがして、それから心を入れ替えて愚痴をこぼさずに、この不平等の世を懸命に生きる努力をしました。

後に会社を立ち上げました。」

という話であります。

この禅僧が小池心叟老師なのでした。

老師とはいえ、まだ四十歳になったばかりの頃であり、京都の建仁寺から入寺して間もない頃でした。

今思えば、晩年の老師でしたら、もっと親切に説かれたのかもしれませんが、こんな端的の一言が、青年には却って響いたのでしょう。

青年は、心叟老師のもとで坐禅をし、やがて墓地も境内に求めて、終生心叟老師を支えておられました。

心叟老師もまた、多くの檀家や信者さんの中でも、もっとも信頼されていたと思います。

私は、学生時代に心叟老師のもとで出家しました。

まだ出家して間もない頃に、その方が私に、心叟老師とのご縁の始まりについて話をしてくれました。

その時のやさしいまなざしを今も忘れないのです。

きっとその方も戦後いろんな苦労をなされながらも、坐禅をして、老師を心のより所にして生きてこられたのだと思いました。

この話を『禅文化』誌上に書いたので、その方のご息女に『禅文化』を送ってあげました。

一般の方には難しい内容の冊子なので、私が書いたところに付箋を付けて、「お父さまのことを書かせていただきました」と手紙を添えて送ったのでした。

しばくして、ご丁寧なお礼状をいただきました。

礼状と共にその方の遺稿集も送ってくださいました。

その遺稿集を拝読して、心打たれました。

「世の中は、なぜこんなに不平等なのか」という一言には、どれほどの思いが込められていたか、その一端を垣間見た思いたしたのです。

その方は、戦争中に、マーシャル群島に送られていたそうです。看護科分隊であったと書かれています。

昭和十八年、マーシャル群島の中のタロア島という小さな島に送り込まれました。

タロア島は、周囲4キロか4.5キロほどで、歩いても一時間ほどで一周できます。皇居の広さほどの島なのです。

その小さな島に、二年間で、延べ八千機のアメリカ軍飛行機が爆弾の雨を降らせたというのですから、想像を絶します。

小さな島に、三千人が残されて、水はというと椰子の木が五本だけ、しかも地面を一メートルも掘ると塩水がでるというのでした。

食料は全く無く、動物らしい動物も住んでいない島なのでした。

そこで生き延びるのでした。

当然、多くの餓死者が出ています。

爆撃で亡くなった人よりも、栄養失調で亡くなった人が多かったのでした。

草を食べ、ねずみもコオロギも、なんでも口に入れたそうです。

しかし、そんな過酷な状況では人間性を失ってゆく者も出て来ます。

「目を覆うような非道なことも目立ち始めた」と書かれています。

その方は、

「正しい生活をしているものが滅び、邪道を踏むものが勝つ」などという不条理な現実を目の当たりにしながらも、良心を失わないように必死の努力をされたのでした。

邪道に走って、良心の呵責にさいなまされるよりは、良心的満足を持つことが大切だと心に思ったというのでした。

そんな気持ちで仲間と励まし合ったというのです。

幸いにも戦後復員されました。

三分の二くらいの方は亡くなりました。被爆はもちろん、栄養失調による戦死も大勢でありました。

復員してからは、懸命に生きようと努力されました。しかしある日、公定価格違反で逮捕され、留置場に収監されてしまいました。

あとで分かったことだというのですが、大きなお店の者は始末書で済まされて、その方のように店舗も持たない弱い者が逮捕されたということなのでした。

過酷な戦場においても、「正しい生活をしているものが滅び、邪道を踏むものが勝つ」ようなことがあってなるものかと、良心を保ち続け、戦争中一命を投げ出して戦ってきたというのに、誰からもお礼も同情もない、そんな中で一部の者だけが利得を得ているという世の中を許せないという気持ちになって、苦悶していたのだそうです。

小池心叟老師に「世の中はなぜ不平等なのですか」という一問には、こんなに言葉に尽くせない思いが込められていたのでした。

遺稿集には、

「小池心叟老師を知り、臨済禅を知るようになって、考え方、物の見方が大きく転換することになりました」と書かれています。

投げやりになっていたご自身が変わったのでした。

晩年病になって、意識が混濁して来たときなど、ご息女を前にして、「上隊長殿、一生懸命働かせていただきます」と敬礼をくり返して言われたというのです。

ご息女も

「人生の最期に思い出すのは戦争のことなのだと知って、戦争の傷跡の大きさを感じました」と書かれていました。

ご家族にも戦争の体験を語ることはほとんどなかったそうです。

私が学生時代お世話になった頃も、いつもニコニコとして、ただまわりを笑わせてくださる明るい方でした。

それが、こんな苦難の人生だったのでした。

それでも、禅を学び、この不平等の世の中を、明るく生き、そして優しい人格となって生き抜かれたのでした。

 
横田南嶺

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