一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は
もろもろの善を奉行し、
自ら其の意を浄くす
是れ諸仏の教えなり」
という七仏通戒の偈を、
松居桃楼先生が、『天台小止観』を講義された『微笑む禅』という書物の中で、
「一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は
どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は
この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、
人間が生まれながらに持っている、
いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす
人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている」
と意訳されました。
とりわけ「仏の心」を「いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむことができる心」であると説かれました。
お釈迦様と迦葉尊者の拈華微笑の話にも通じるところがあります。
『天台小止観』で天台大師は、
「この世の中で、かしこい人には二種類ある。
一つは、生まれながらにして、自分に対しても、他人に対しても、ほほめなくなるような種を絶対に播かない人、
二つには、間違って播いてしまったとしても、すぐいけないと反省する人」
であるというのです。
こういう人ばかりだと、世の中には問題は起きなくなるでしょう。
そうはいかないのがお互いであります。
毎日新聞の二月十七日夕刊には、
「不安が生むコロナ差別」という大きな記事がありました。
次の日の十八日の朝刊には、
「新型コロナでカスハラ被害増」という記事が目に入りました。
カスタマーハラスメントというのがあるのだそうです。
「不安が生むコロナ差別」という夕刊の記事では、
「新型コロナウイルス感染症の出口が見通せない中、感染者や医療従事者への差別は今も続いている」と書かれています。
その記事では、近畿大准教授の村山綾先生が説かれています。
村山先生は、コロナ差別の背景には、「善い行いに良い結果が、悪い行いには罰が伴う」という心理があると説かれています。
こうした因果応報的なルールによって秩序ある安定した世界が成立していると信じる傾向を「公正社会信念」と呼ぶのだそうです。
こういう信念のもとでは、不安を覚えたときに、安定した世界観を守ろうして、被害者であっても、「あなたにも落ち度があったはず」と非難し、加害者を「自分とは別の世界の人間」と非人間化して厳罰を求めるのだというのです。
なかなか難しい問題です。
原因と結果の法則は、科学でも仏教でも否定できない真理です。
今の状況をよい方向へと転換してゆくには、今善い行いをするしかないのです。
しかし、この因果の法則を、他人に押し付けて、あなたの過去の行いが悪いから、こんな目に遭うのだというように人を非難する論理に使ってしまうことは、よくありません。
感染した本人には、何らかの落ち度があったと思い込んでしまい、非難してしまうことになるのです。
村山先生は、
「感染の不安を乗り切る際に、『感染者は自業自得』と考えるのではなく、『今はつらい時だが、そのうちきっとよくなる』と考えて不安を解消する手段もあります。」
と説かれます。
しかし、「日本人は、例えばこの視点の維持に有効な『信仰心』を持たない人が大半を占める。
将来ポジティブなことを想像して現在の不安な状況を乗り切るのが苦手なのかもしれません」
と説かれています。
神さまや仏さまが見守ってくれていて、きっと良い方向に進んでいくという信仰をもっていれば良いのでしょう。
それが難しいのであれば、やはり自らの体と心を自分で調えることであります。
神さまや仏さまを信じて、そのうえで自らの体と心を調えれば一層良いことであります。
『天台小止観』では、「調五事」といって、体と呼吸と心を調えるという、その前に食事と睡眠を調えることを説いています。
食事も大切であります。
先日も新聞の投書に、「朝のみそ汁作りに励む」という題で、八十歳の男性の方が書かれていました。
毎朝妻に代わって朝食づくりに励んでいるそうです。
近くのスーパーで、安いもの栄養のあるものを探して食材を買うのだそうです。
栄養のあるみそ汁になるように工夫しているとか。
自分がつくったもので喜んでもらえれば、こんなにうれしいことはありませんと書かれています。
生きがいを感じるのだそうです。
心をこめて工夫して、おみそ汁を作って、奥様に喜んでもらえたら、その時こそ、ほほえみに満たされていることでしょう。
たとえひとりであっても、心を込めてお出しを取って、丁寧におみそ汁を作って、手を合わせて感謝して、ゆっくり味わっていただく、それだけでもほほえみが湧いてくるでしょう。
私たちは、天台大師が説かれるような賢い人ばかりではありません。
ついつい、イライラしたり差別をしたり、ほほえめなくなる種を播いてしまいがちです。
そんな時には、まずその状態になっていることを自分で気がつくことです。
それには、やはり、「感情を波だたせないこと」と、「思考力を正しく働かせること」という「止と観」の訓練が必要です。
そして、自分でこれはいけないと気がついたら、すぐにほほえむことのできる種を播くように努力することであります。
言葉を唱えて自分に言い聞かせるのもよいことです。
「一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は
どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は
この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、
人間が生まれながらに持っている、
いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす
人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている」
横田南嶺