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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.11
今日の言葉

罪はどうなる

大正十一年、朝比奈宗源老師がまだ三一歳の頃、浄土真宗の村田静照和上を訪ねて、念仏の教えを学ばれました。

村田和上はその頃六十七歳でした。

毎晩夜を徹して、お二人は禅を語り、念仏を学び、お互いにまるで交換教授のように、研鑽されたのだそうです。

そんな中で、罪についての問答がございます。

『我が師村田和上』という本に書かれています。

朝比奈老師が

「如来の救いは解りますが、さて我々の悪業はどうなるのですか」

と尋ねました。

どんな者も阿弥陀さまのお慈悲に救われるということですが、それぞれの人がこの世で犯した罪はどうなるのかという問題です。

すると村田和上は得意の即席の譬喩をもって、答えられました。

この答えが実に軽妙洒脱なのです。

本書の中の言葉をそのまま引用しますと、

「豆腐屋の親爺が立身出世して、とうとう総理大臣になった。

すると豆腐屋をしていた頃に、金を貸してあった債権者たちは、 今更借金の催促をするどころか、『あんな端した金くらいはようござんす』と、その僅かな貸金の因縁をふてにして、総理大臣に近づかんことを望むようなもの……」

と返答されたそうなのです。

本書には、

「言葉も未だ終わらぬに、「はあッ!」と大喝一声、座敷の床も戸障子も、ビリビリッと振動するほどの領受の歎声に、侍座の阿部さんも思わず跳び上がったと、面白そうに語られた」

と書かれています。

実に禅問答そのものの趣であります。

そんな小さなお金を貸しただの借りただのということは問題にはならないということを喩えたものです。

阿弥陀さまは、人間の小さな罪などをすべて包み込んでくださるということでしょう。

仏心ということで説けば、仏心には罪や汚れは届かないから、仏心は常に清らかで常に安らかで、静かな光明に満たされているということです。

人間の罪と、阿弥陀さまの慈悲や仏心とは次元が違うのです。

神の救いも同じようなところがあります。

井上洋治神父の『南無アッパ』という本に

 有難いことだ

面白くないことがあっては
ぶつぶつ言い
忙しいといっては、
祈りを忘れ
つまらないことで嫉妬しては
心をかさかさにし
人にほめられたくなっては
うそをつき
人の困っているのを見ながら
めんどくさいので目をつぶる
それでも
心から信頼して
アッパととなえて合掌すれば
必らず迎えてくださる神さま、
ほんとにほんとに
有難いことだ
有難いことだ

という言葉がございます。

面白くないことがあってブツブツ文句を言うし、忙しいと祈りを忘れるし、つまらぬことで嫉妬してしまう、そんなどうしようもない自分を神は救ってくださるというのです。

アッパという言葉は、井上神父がよく用いられた表現です。

「アッパ」という言葉について、井上神父は、その著『余白の旅 思索のあと』で次のように説明されています。

「エレミアスによれば、イエスの祈りの特徴は、神に対して「アッパ」(父よ)と呼びかけた点にある。

そしてアッパというアラム語は、もともと乳ばなれをした赤ん坊がイマ(母よ)ということばと一緒に最初に覚えるものであって、従って幼児語であるが、成長しても子供が特に親しみをもって父親に呼びかけるときにはアッパというのだという。

そうだとすれば、アッパに一番近い日本語は何かと考えたとき、それは「父よ」でも「お父さん」でもなくて、まさに「パパ」ということになろう」

というのです。神へ実に親愛を込めた呼びかけの言葉なのです。

慈愛の心あふれる父であれば、わが子がどんな罪を犯そうとも、罪は罪として法律で裁かれようと、その子の存在自体を、そのまままるごと許し受けとめてくれるでしょう。

それが親の心であります。

親の子に対する愛情にとっては、この世の罪などは次元が異なるものであって、愛を妨げるようなことにはならないのであります。

『余白の旅』では、法然上人の事が紹介されています。

法然上人のお慈悲は、イエスの愛にも通じるというのです。

『法然上人絵伝』の巻三十四には、法然上人が四国の讃岐に流される折、播磨国、室の泊で法然上人に教えをこいに来たわかい遊女たちに、船の上からねんごろに説法している絵がのってるそうなのです。

「世の中にはいろいろな仕事にたずさわっている方々がおられますが、どのような深い罪障があって、私たちはこんな身の上になってしまったのでしょう。どうやったら私たちのような罪深い身でも救いをうることができるのでしょう」

と尋ねた遊女たちに対して、心を動かされた上人が、

「もし今の仕事をやめて他の仕事で生活していけるのだったらそうするがよい。

でも他によい仕事も見つからず、身体を投げうってまでも仏に従おうという気がまだおこらないなら、今のままでよい。

ただ念仏をとなえなさい。

弥陀如来様は、そのような罪人のためにこそ弘誓をたてられたのです。

深くこの弥陀の心に信頼して、決して絶望したり自己嫌悪におちいったりしてはいけません。

本願に信頼して念仏すれば、往生できることは間違いないのです」

と答えたという話です。

この話を引用された井上神父は、

「この絵をみていると、私には遊女やハンセン病患者に接していたイエスの姿が思いだされてくるのである」

と書かれています。

どうすることもできない業を背負いながら生きていく人に、神の愛や阿弥陀の慈悲は平等に注がれるのです。

仏心には罪や汚れも届かないという真理を、神の愛や弥陀の慈悲を用いて示してくれているように思われます。

この身このまま救われるということは、この身このまま仏であるということと一如だと思うのです。

 
横田南嶺

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