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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.21
今日の言葉

幸せの一万年

縄文時代というのは、幸せの時代だったという説があります。

しかも、それが一万年も続いていたというのです。

なぜ幸せだったといえるかというと、素晴らしい芸術の土器が見つかっているので、こんな芸術は、生きるか死ぬかという殺伐とした状況ではできないということです。

他にも武器などで争った形跡が残っていないということもあげられます。

弥生時代になると、矢じりなどが刺さっていたり、斧でたたき割られた形跡のある遺骨が出てくるのだそうです。

小児まひになっていたと思われる大人の遺骨も見つかっていて、こういう小児まひの子を育てていたということは、みんなで助け合って子供たちを育てていた証拠なのだということです。

縄文時代というと、あまりにも遠い話なので、私にもどこまで本当なのか、判断できるものではありません。

もし、そうだとすると、素晴らしいことだなと思います。

かつて執行草舟先生にお目にかかった折りにも、縄文時代の素晴らしさを拝聴したことを覚えています。

仏教に、転輪王という王様が説かれています。

理想の王様なのであります。

転輪王は、代々領地内に、不正のないように、富の無い者に富を与え、驕慢と放逸をはなれ、忍耐と柔和を守り、涅槃を求めて修行している出家者がいたら、道を聞いて不善を離れるようにと言い伝えられていました。

転輪王は、殺してはならぬ、盗んではならぬ、邪淫を離れよ、妄語をはくな、酒を慎めと教えていました。

ところが、そのような言い伝えが絶えてしまい、富のない者に富を与えることをしなくなりました。

すると、貧しい者はますます貧しくなり、盗みをはたらくようになりました。

王は、その盗人は、生きるためのことだと知って、盗みをした者には、富を貸し与えました。

すると、次々と盗みをする者が現れ、そのたびに王は富を与えました。

だれもかれも王から富を得るために盗みをするようになりました。

王は、自分は盗みをする者のために富を与えていて、盗人を増すばかりになっていることに気がついて、今度は盗人の首を刎ねるようにしました。

盗人を根絶やしにしようとすると、人々は恐れて却って村を襲い、町を襲い、人殺しが増え、嘘をつくようになり、父母に対する不孝も増えました。

互いに憤りと殺害の心が起こって、家族同士でも殺し合いが起きるというのです。

武器の時代が続いて、多くの人が死に絶えてしまいます。

その間、林の茂みや洞窟に隠れて難を逃れたわずかの者たちが出てくると、

互いに、ああお前もいきているといって抱き合い喜ぶのです。

その時にこう考えます。

私たちは、不善を行うことによって、破滅した、これからは善を行おう、殺生はやめよう、盗みはしないようにしよう、嘘はやめよう、邪淫を離れよう、酒を慎もうと思うのです。

縄文の幸せの時代から、弥生時代になると、農耕が始まります。
稲作を始めるのです。

すると

「ここからここまでは私の田」と土地を区切り、水を引きやすい場所を奪い合ったりするようになります。

皆で分け合う時代から、所有して奪い合う時代になったというのであります。

そうすると、罰則を作って、人はおびえるようになってしまいます。

段々悪い方向へと進みます。
ダライラマの説かれるように、

「砂に一本の線を引いたとたんに私たちの頭には「こちら」と「あちら」の感覚が生まれます。この感覚が育っていくと本当の姿が見えにくくなります」

そうして、自分のもの他人のものと分けることによって、どうなるかといえば、鈴木大拙先生は、

「分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。

……それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち力の世界がそこから開けてくる」(『東洋的な見方』より)と説かれるようになります。

争いが起きれば、仏陀が説いたように、

「勝つ者 怨みを招かん 他に敗れたる者 くるしみて臥す」(『法句経』201)ということになります。

そこで仏陀は、「されど 勝敗の二つを棄てて こころ安静なる人は 起居(おきふし)ともに さいわいなり」と説かれたのでした。

因果の法則は真理であり、誰もくらますことはできません。

不善をなすことは、滅びの道なのです。

善行を積むことこそ繁栄の道なのです。

縄文時代の話は、日本講演新聞からの話です。

転輪王の話は長阿含経の話です。

ちょうど仏典の話を調べていたところで、二つの話が重なり合うように感じたのでした。

「ここからここまでは私の田」と土地を区切るという話から、因幡の源左さんの話を思い起こしました。

隣の田の草を取っていた女性の赤ん坊が泣き止まないので、家に帰させて、自分がその隣の田んぼの草も取っていたのです。

なぜよその田の草も取るのかと言う家族に、

「仏さんの心には、自分の他人のという区別は無いけんのお」

と言ったという話です。

こういう心こそが、真の平和をもたらすのだ思います。

無我こそが、平和と幸せをもたらすのであります。

さて、今の時代、将来、どんな時代だったと語り伝えられることでしょうか?

 
横田南嶺

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