念が起きても
長い間坐禅をすれば、無念無想になるのかと、私などもずっと思っていました。
何も思わない、何の念も起こらなくなると、それが悟りというものかなと思ったものでした。
そこで、無になろう、無になろうと、頑張ったものでした。
私が出家得度させていただいた師匠は、小池心叟老師というお方でありました。
長年京都の建仁寺で坐禅されて、東京の白山道場龍雲院の住職になり、毎朝坐禅会をなさっていて、九十歳になるくらいまで、実によく坐禅をなされた老師でありました。
学生の頃は、いつもその老師の隣りで坐禅をさせてもらったものでした。
坐禅のあと、一緒に食事をしていると、老師はよく、さっき坐っている間は、烏が鳴いてうるさかったとか、猫が鳴いていたとか、いろんな話をされていました。
私は、その頃、烏の声も猫の声も耳に入らぬほどに集中して坐っていたものでした。
そこで、なぜ老師はそのようなことを言われるのか、よく分かりませんでした。
坐禅をすれば、そんな外の物音は聞こえなくなるのだろうと思っていたのでした。
盤珪禅師の語録を読んでいますと、怒り、腹立ち、憎しみ、妬みの心が、地獄や餓鬼、畜生、修羅の世界を作りだすのだと説かれています。
では、そのような念を起こさないようにするのが、修行だと思います。
ところが、盤珪禅師は、そのような念をやめようと思う必要はないと説かれているのです。
むしろ、念を止めようと思うと、一心が二つに分かれてしまうと言います。
わいて起こる念と、それを止めようとする念とが、お互いに戦いあって、止まることがないというのです。
それよりも起こる念を、止めようともやめようとも思わずに、出次第にして、その念を重ねて育てないようにして、念に関わらないようにしていれば、念は自ずからやむものだと説かれています。
また起こる念を止めようと思うのは、血で血を洗うようなものだとも説かれています。
前の血はおちても、あとの血で汚れるというのです。
念が起こるのは、鏡に物が映るようなもので、鏡はどんな物を映しても、何のあとかたも残らないのです。
仏心は、そんな鏡よりも、万倍も明らかなものであって、一切の念などは、鏡の光の中に消えるのだと盤珪禅師は説かれています。
たとえば、鐘の鳴る音が聞こえてきます。
音がすると鐘が鳴っていると分かります。
しかし、その音のする前にも、鏡のように心は、すでにあるのです。始めから、もともとあるのです。
音がすると、鏡に物が映るように、音がしたと聞こえるだけのです。
音が消えれば、もとの鏡のままです。
音のしない前から、ずっとあり続けているのが仏心です。
この仏心に目覚めたら、どれほど念が起こっても障りはないと気づくことができるのです。
藤田一照さんが、「感覚をとらえようとするのではなく、感覚が湧き上がるにまかせる」と説かれるのは、その辺の消息だと思います。
一照さんは、心を調える、調心ということについて、
「何らかの対象に注意を向けること、集中することではなく、
対象が気づきのなかに。現れるまままにする」
と説かれています。
ここでいう、「気づき」とは、盤珪禅師の不生の仏心であり、鏡の譬えに通じるものだと思います。
不生の仏心の中に、沸き起こる念をやめようなどとせずに、ただ現るままにしていれば、自然と消えてゆくだけのことなのです。
やめよう、やめようと力むと却って心は暴れます。
小池心叟老師が、烏がよく鳴いていたというのは、そのまま念の現れるままだったのです。
烏の声など聞こえないように坐禅に集中してなど、力んでいたのは私だったと、ようやく気がつくことができました。
ですから、盤珪禅師はカミナリが鳴って驚いても、驚いたらいいと説かれます。
眠っている僧を叱ることもされなかったのです。
目覚めたら坐ればいいだけだと思われていたのでした。
仏心に目覚めることこそが、真の坐禅でありましょう。
「長空礙えず、白雲の飛ぶを」という禅語も、其の消息であります。
大空には、いくら雲が飛んでも、たとえ嵐が来ても、何事もないのです。
さて、本日から、僧堂では、一週間の大摂心です。
一年でも一番寒い時期なのですが、坐禅に打ちこんで過ごします。
横田南嶺