社会的価値と存在的価値
昨年に、松本紹圭さんのポットキャストに出していただいたご縁であります。
松本さんからたくさんの貴重なお話をうかがうことができました。
松本さんという方が、どんな僧侶なのかを説明しようとすると、一言では言いがたいので、やがて公開される動画をご覧いただきたいと思います。
その折りに、控え室で話をしていた時に、社会的価値と存在的価値ということについて話をしました。
社会的価値というのは、文字通りこの社会における価値であります。
学校ならば成績、会社ならその地位、世間における名誉、持っている財産、近所の評判、などなど私たちは、この世界に生きるには、たえず周りからの評価を受け続けています。
そんな社会的価値によって、評価されることがないような世が、理想なのかもしれませんが、それは難しいことでしょう。
もっとも、その社会的価値によって不当に差別されるようなことはあってはなりません。
しかし、この世界に生きるには、社会的価値はつきまとうものです。
ただ、人間の価値はそれだけなのかという疑問が、宗教の世界に目覚めるには大切なのです。
どんなに社会的価値を受けようが、時には社会的価値を否定されようが、絶対に変わることのない存在的価値があります。
その人が、そこに居るという価値です。
生まれて、生きてきて、いまここにこうして存在している、そのことの価値であります。
これは、社会的価値より、小さなものと思われるかもしれませんが、次元を超えた、もっと大きなものです。
松本さんとご縁のある青年僧が、ご自身で一番大事にしていることが、人の社会的価値とは別に、存在的価値があることだと言われたそうです。
自分に対しても他人に対してもそのままでその存在的価値を認め、また認められる人が増えて欲しいと言っていたという話なのです。
存在的価値を否定することは許せないというのです。
社会的価値をそのまま自分の存在的価値と思ってしまうと、自分を傷つけてしまい、苦しみを生み出してしまいます。
社会的価値を失うと、存在的価値もなくなると思ってしまいます。
その前提に、そのままでいいと存在的価値を認めてくれる人がいることが救いになります。
阿弥陀さまは、そのままを認めて救って下さる仏さまです。
これは臨済禅師の説かれた「無位の真人」にも通じるところがあると感じました。
無位の「位」というのは、社会的価値にあたるでしょう。
地位、名誉、財産、男女、学歴などで評価されるのは「位」です。
しかし、相国寺の田中芳州老師が
「この身に地位・名誉・財産・学歴・男女などに汚れない「主人公」がいる」
と言われたように、そんな「位」に限定されない、真の自己「真人」がいます。
それは言葉を換えると存在的価値でありましょう。
そして、坐禅は、その存在的価値をそのまま認めた姿です。
ただ、何もせずに坐るだけです、存在するだけに徹しているのです。
ですから、そこには、「健康」だの、「何かの役に立つ」などという社会的な価値はいらないのです。もっと言えば「悟り」さえいらないのです。
道元禅師は、「無所得 無所悟にて、端坐して、時を移さば、即、祖道なるべし」と仰せになっています。
ただ、ある、それだけの尊さに満たされているのです。
臨済の禅では、その存在的価値は、ただ坐っているだけではなく、日常の営みにも表れていると説きます。
食事をしている時も、服を着替えるにも、歩くのも横になるのも、疲れて眠るのも、大小便をするにもみな、そこに存在的価値が現れているのです。
私たちは、一般にこの社会的価値が満たされると幸せを感じるものです。
それはそれで結構でしょう。
しかし、それは実に不安定なもの、もろいものです。
一瞬満たされたように感じても、また失われます。
失われると、また更に社会的価値を得ようと努力します。
いくら努力しても、人間が生きていく上には、老いと病と死は避けられません。
老いも病いも、死も、これらは社会的価値を奪っていくものであります。
そこで社会的価値がどうなろうと、そんなことでは微動だにしない、存在的価値を自覚していること、そして存在的価値をそのまま認めてくれる人がいるということが大きな支えになります。
というように、「真人」や「仏」というものも、古い言葉で表現するよりも「存在的価値」という言葉にしてみると、理解しやすくなるのかもしれません。
松本さんは、死んだ言葉の海に溺れないようにと説かれています。
私たちが、すぐに経典の言葉や、語録の言葉で語ってしまい、自分で酔いしれてしまっていることがあります。
そうではなく、自らの言葉で、現代の言葉で語る努力が必要なのです。
そういいながら、つい「無位真人」という語録の言葉を持ち出してしまいます。
反省します。
しかしながら、「存在的価値」というと、文字通り存在している間だけのものになりますが、仏心は、不生にして不滅、ずっと永遠なのであります。
仏心からみれば、亡くなった方も同じ価値を持つのです。
反省すると言いながら、また「仏心」という言葉を使ってしまっていました。
再び反省。
横田南嶺