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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.18
今日の言葉

カモはどこに

先日の日曜説教で、平塚らいてうの話をしました。

まだ十九歳の女学生の頃に、禅に出合うという話であります。

平塚らいてうは、若き日に、キリスト教で説く神の概念が納得できなかったと、自伝『元始女性は太陽であった』に記されています。

「神を超越的な存在として天上の彼方の遠いところに置き、それに対して人間は下界にあって罪深い存在、罪の子、罪のかたまりと見る、この神と人と対立の観念が、わたくしにはどうしても不満でした」

と率直に書かれています。

自分を罪の存在として認め、天上の彼方の神に救いを求めるという考えに納得して、信じることができればそれでいいのでありましょう。

敬虔な信徒として、神の救いに身を委ねれば安心であります。

しかし、その様な考えには納得できない者がいることも事実であります。

そういう人は、ご自身で納得のゆく教えを求めればよろしいのです。

らいてうは、

「神がほんとうの神であり、絶対者であるなら、対立するものはないはずではないか」

と考えました。

鋭い問いであります。

そこで、らいてうは、彼女なりに、

「神は超越的なものでなく、この宇宙の内部に、人間を含めた自然のあらゆるものの根底に存在するもので、われわれはみな、この神なる絶対者のなかにあるのだというように、このころのわたくしは頭で考えていたからでした」

という見方をしていたのでした。

しかし、らいてうは、

「先人の言葉や思想を頭のなかに詰めこみ、自分自身の体験のともなわない抽象的な観念の世界に、真の神を、本ものの自我を模索することのいかに空しいものであるかはよくわかっても、それなら神の観念でなく、実在の神にじかに対面することはどうしたら出来るのか、ほんとうの信仰、ゆるぎない安心立命はどうしたら得られるものか、 あらゆる既成観念をすて去り、 知性にたよらず、「深く内部生活に沈潜する」とか、「至情の要求に神の声を聴く」とかいっても、 それは一体どうしたら出来ることなのか、わたくしには皆目わかりません。わたくしは新たな悩みに出会いました」

と若き日の悩みを率直に吐露しています。

そんな時に、今北洪川老師の『禅海一瀾』に出合うのです。

『禅海一瀾』を開くと、

「大道は心に求む。外に求むること勿れ。我が心体の妙用は、直に我が大道なり」

という一文が目に入りました。

そこでらいてうは

「「大道を外に求めてはいけない、心に求めよ」ということばこそ、観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する直接警告のことばではありませんか」

と思ったといいます。

「わたくしは息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました」

というように友人から『禅海一瀾』を借りて読んだのでした。

大道を仏と置き換えてもよろしいでしょう。

仏を外に求めてはいけない、心に求めよということです。

我が心のはたらきが、直に我が仏にほかならぬということになります。

これは、馬祖道一禅師の教えそのものであります。

そして、この馬祖禅師のもとで目覚めたのが、一月十七日ご命日であった百丈禅師でありました。

『碧巌録』五十三則に、その話がございます。

原文は、

「擧。馬大師與百丈行次。見野鴨子飛過。
大師云。是什麼。丈云。野鴨子。大師云。什麼處去也。丈云。飛過去也。
大師遂扭百丈鼻頭。丈作忍痛聲。大師云。何曾飛去」

という文章です。

訓読しますと、

「馬大師、百丈と行く次いで、野鴨子の飛び過ぐるを見る。大師云く、是れ什麼ぞ。丈云く、野鴨子。大師云く、什麼の処にか去る。丈云く、飛び過ぎ去る。大師遂に百丈の鼻頭をひねる。丈、忍痛の声をなす。大師云く、何ぞ曽て飛び去らん」

となります。

これでもまだ難しいので、小川隆先生の現代語訳を参照しましょう。

春秋社の『禅思想講義』から引用します、

「馬祖と百丈が歩いていたとき、カモの飛んでゆくのが目に入った。

馬祖、「何だ?」

百丈、「カモです」

「どこへ行った」

「飛んで行ってしまいました」

すると、馬祖は百丈の鼻をひねりあげた。

ーイタタタタ!

百丈は思わず、悲鳴をあげる。

そこで馬祖は、ひとこと、

「飛んで行ってなどおらんじゃないか」」

という以上なのです。

現代語訳にすれば、こんな簡単な会話なのです。

小川先生の訳で学べば、実に明確に理解できます。

小川先生は、

「かくされた主題は、飛び去ったカモではなく、そのカモを見る百丈その人のほうだったのでした」

と解説してくださっています。

実に神は、天上の遠くにあるのでもなく、仏は十万億土の彼方にあるのでもなく、「我が心体の妙用」にあるのですから、鼻をひねりあげられて、「アイタタタタ!」という、そこにあるのです。

ありありと現れているのです。

こうして、馬祖禅師の「即心是仏」すなわち、「自らの心がそのまま仏である」という真理に、百丈禅師も目覚めたのでした。

百丈禅師のご命日の法要を勤めていると、いつもこの「カモ」の話を思い起こします。

さて、そのカモは、今どこに?

 
横田南嶺

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