時が来れば
禅宗にとっては、大切な祖師であります。
馬祖、百丈というこのお二方は、臨済の教えの基盤となる祖師であります。
西暦七四九年に生まれ、八一四年に亡くなっていると、『禅学大辞典』には書かれていますが、『景徳傳燈録』では世寿九五歳と記されています。
どうも計算が合わないのですが、細かな詮索はしないことにします。
日本では最澄さん伝教大師の少し先輩になります。
今日の禅寺の規矩(きく)と申しますが、修行生活のもとをお作りになりました。
禅語で有名な
「一日作さざれば一日食らわず」
とはこの方のお言葉です。
九十過ぎまで毎日若い雲水達と共に畑仕事などの作業に励んでいました。
寺の僧たちが、もうあまりにご高齢で申し訳ないと思って、百丈禅師の畑の道具を隠してしまいました。
そうしましたら次の日から、禅師はお食事を召し上がりません。
「如何なさいましたか、お加減でも悪いのですか」と問うと、禅師は「自分のような者がろくに働かずに食事をいただいては申し訳ない、一日仕事が出来なければ一日食べません」と答えられました。
そこで、寺の者たちは、あわてて隠していた道具を出したという話が伝わっています。
それから、百丈と野狐の話は有名です。
その百丈和尚のお寺でいつも禅師がお説法をなさるときに一人の老人が聴講に来ていました。
なにやら普段見慣れぬ老人のようです。
お説法が終わってみんなが帰ると老人も帰って行きます。
ところがある日のこと、お説法が終わってみんなが引き上げても、この老人だけが残って帰りません。
どうしたことかと思って禅師は、老人に質問をします。
「お前さんあまり見かけないようだが、何処の誰ですか」と。
老人は答えます。「ハイ実は私人間ではありません」と驚くことを言いました。
「昔迦葉仏というお釈迦様より前の仏さまの時代に、この山の住職をしていました。
そのときに一人の修行者が私に質問をしました。
修行して悟った人も、因果の法則に従いますかと。
私はそのときにその質問に答えて、修行した者は因果に落ちない、原因結果の法則を超越して従うことはないと答えました。
その答えが間違っていたために五百回も野狐に生まれ変わりました次第です」
どうもこの老人、狐が化けたものだったようです。
因果の教えは仏教で大切なものです。
原因と結果、原因があれば必ず結果が現れます。
また結果のあるところには、必ずその原因がございます。
この因果の法則は誰も免れないはずですが、修行して悟りを開けば、因果の法則に落ちないのか、因果を超越することが出来るのかという問いかけに対して、この老人は曽てこの山の住職であったときに、因果に落ちない、原因結果に縛られない、因果を超越出来ると答えたのでした。
この答えが間違っていたために、五百回も狐に生まれ変わったというのです。
何とも奇妙な話です。ここから誤った禅の教えを「野狐禅」と呼ぶようになったようです。
そこでこの老人、百丈禅師に対して「どうか一つの言葉を賜って、私を狐の身から逃れさせてください」とお願いをして、前に自分が受けたのと同じ質問をします。
「修行して悟りを開いた人も因果の法則に従わなければなりませんか」と。
百丈禅師は答えました。
「因果の法則は決してくらますことは出来ない」と。
この禅師の言葉を聞いて、老人は「おかげで私の迷いがはれました。ありがとうございました。」とお礼を表します。
更に老人は「私は既に狐の身を脱してこの山の裏におります。どうか亡くなった僧侶を葬る儀式で私のお葬式をしてください」と頼みます。
さて百丈禅師はお昼の食事の後に、みんなに「今日はお昼が済んだら、亡くなった僧の葬儀を行う」とおふれを出しました。
みんなは驚きました。
今誰も病気をして休んでいる者もいないのに、一体誰の葬儀だろうかと。
食事が終わった後、禅師がみんなを連れて山の裏に赴いて、杖で一匹の狐の死体を引っ張り出して火葬にしました。
というのが、「百丈野狐」の公案であります。
仏陀は、縁起の法を説かれました。
「すべてものは縁によって生まれ、縁によって滅ぶ」という教えです。教えというよりも、これは真理であります。
「雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである」と説かれています。
更に仏陀は、「だからこの身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない」と仰せになっています。
仏陀の教えの根幹には、すべてのものは皆仏性を具えているという真理があります。
仏性とは仏の心です。
百丈禅師は、
「仏性の義を知らんと欲せば、まさに時節因縁を観ずべし」
とも説かれました。
「時節到らば、迷えるも忽ち悟るが如く、忘るるも忽ちに憶するが如くにして、はじめて己が物の他より得るにあらざるを省す」
と続けられています。
人はみな仏の心をもって生まれているのです。
ただそのことに気がついていないだけなのです。
その「仏性」に気がつくには、時節因縁が必要であるというのです。
たとえて言うと、誰しも心にはすばらしい「仏心」という種があります。
それがよき縁に触れて、時節がくれば必ず芽を出して花開くということです。
迷っていた者も必ず気がつくことできるし、忘れていたものも必ず思い出すことができるようなものだというのです。
「時節因縁」とは、よき時によき出会いがあることにほかなりません。
時が来れば、誰でも気がつくのです。
その時まで、百丈禅師が、
「一日作さざれば、一日食らわず」
と説かれたように、毎日の勤めを地道に励むことなのです。
横田南嶺