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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.16
今日の言葉

到彼岸と彼岸到

波羅蜜を「到彼岸」と訳します。

彼岸に到るという意味です。

こちらの岸が迷いの世界、あちらの岸が悟りの世界です。

迷いの世界から、悟りの世界へと到るのが仏道であります。

そのために、戒を守り、禅定を修めて、修行をするのです。

唯識という仏教学においては、この迷いの世界から、悟りの世界にいたるまで、三大阿僧祇劫かかると説かれています。

阿僧祇劫とは、十の五十何乗というような気の遠くなる時間です。

とても、人間一代でできるものではありません。

しかし、そんな悟りの世界は遠くにあるのではなく、もっと身近にあるのだと禅では説くようになりました。

臨済禅師なども、そんな三大阿僧祇劫もかかる修行を否定されています。

今ここで話を聞いているものが仏だと直指されたのでした。

臨済禅は、臨済禅師の教えを受け継ぎながらも、そのままで仏であると考えると堕落してしまうので、やはり修行を重んじ、その修行にも独自の階梯を設けるようになってきました。

「公案禅」とか「看話禅」と言われる修行であります。

それに対して、曹洞宗では本来仏であることに重きをおいて、ことさらに悟りを求めようという考えを否定されています。

青山俊董老師から頂戴した『般若心経ものがたり』を拝読していると、やはり沢木興道老師や余語翠厳老師のお言葉がよく引用されて、本来仏であることを強調されています。

余語老師は、波羅蜜多を「到彼岸」と訳すのに対して、「彼岸到」という言葉を示して、

「此岸から彼岸へわたるとすれば、それなりの努力がいる。「彼岸到」と訳すとどうなるか。

天地法界の生命が働きかけてくる」

と仰せになっていて、こちらから彼岸に到るでのはなく、彼岸が向こうからやってくる、すでに完成されているという教えを示しています。

その完成された姿として坐禅があると説かれるのでしょう。

そこで、青山老師は東井義雄先生の話を引用されています。

この話は私も好きな話で、何度読んでも味わいがあります。

少し長いのですが引用させていただきます。

東井義雄先生のところへ、深夜に電話が入ったそうです。

東井先生は教育者であり、僧侶でもありました。

受話器をとってみたら男の方がせっぱつまった声で、

「世の中の人がみんな私を見捨てた、裏切った。

生きてゆく勇気を失ったから今から死のうと思う。

けれど一つだけ気になることがある。南無阿弥陀仏と唱えて死んだら救ってもらえるか」

といったそうです

東井先生は、

「待って下さい。あなたの気まぐれな南無阿弥陀仏、ぐらいで救われるものですか。

それよりも、あなたはまわり中が見捨てたというけれど、あなた自身が自分を見捨てて死のうとしているじゃありませんか。

そのときも一刻も見捨てず、働きかけ通しに働きかけ、呼びかけ通しに呼びかけていて下さる、その方のお声が聞こえませんか!」

と東井先生が言いました。

しかし、「そんな声、どこにも聞こえやしない」と答えます。

そうでしょう、聞こえない者には聞こえないのです。

そこで東井先生は更に

「死のうとしているそのときも、死なせてなるものか、がんばってくれよ、乗り越えてくれよと、あなたの心臓を働かせ、あなたの呼吸を出入りさせて下さっている、それが仏の呼び声であり、仏よりの働きかけなのです。

そのほかのどこに仏がいると思うのですか」

と東井先生が伝えました。

「勘違いをしていたようだな」といって、電話の主は電話を切ったという話なのです。

青山老師は、この話を引用して、

「眠りこけている間も腹を立てているときも笑いころげているときも、変わらず私を生かしつづけていて下さる働き、いや眠ること、腹を立てること、笑うことすらもそのお働きによってこそ可能となる。
その働きは、初めからの授かりであって私の努力や修行の力によって手に入れるものではない」
(引用に際して原文の読みにくい部分を修正しました)

と説かれて、私達はすでに完成されていると示してくださっています。

そこで、

沢木興道老師が

寝ていても運ばれてゆく夜汽車かな

の句をあげて、

「凡夫が修行してボツボツ仏になるのではない。初めから仏。ただそれに気づかずに迷っているのを凡夫という」

とおっしゃったと示されています。

この「寝ていても」の句は、私も好きな句で、よく引用させてもらいます。

夜汽車の中で、一所懸命になって修行しているつもりの者も、ぐっすり寝ている者も同じように運ばれてゆくのです。

これが真理ですが、このことに安住してしまうと、努力しなくなってしまうという弊害も出てきます。

本来仏だ、すでに完成されているという教えと、怠らず求め続けるという教えとは、お互いに相剋しながら、伝えられてきています。

この問題について、青山老師の『般若心経ものがたり』では、終わりの呪の説明のところで、実に明解な見識をしめされていました。

唯識の太田久紀先生の言葉なのです。

太田先生は、唯識の大家でいらっしゃいます。

その太田先生の唯識の講義を青山老師は受講されいたようです。

太田先生は、唯識では修行の完成に三大阿僧祇劫かかるという説を示して、

「仏位を、三祇百劫の彼方において、そこを憧れながら、そこに到達するためにではなく、それが仏道だから一つ一つ、修行を永遠につみ重ねて行く。まさに仏教の大ロマンチシズムではないかと心中ひそかに思っておるところです」

青山老師に示されたと言います。

太田先生の唯識の講座のあと、ある受講生が、

「仏教では一方で始めより成道で、すでに救われていると説いていて、

しかし唯識では三大阿僧祇劫の彼方におくと言うことは、われわれに成仏の日はないというのとおなじではないか、この矛盾する二つの教えをどう受けとめたらいいか」

と質問されたそうです。

太田先生は、

「一つのことなんです。

始めからその中にあって、限りなく修行してゆくということじゃないでしょうか」

と答えられたと書かれています。

青山老師もその太田先生の言葉に深くうなずかせていただいたことであったと記されています。

その中にある、安心のなかで、永遠に努力していくのです。

私もまさにその通りと深くうなずきました。

高田好胤和上が、

「永遠なるものを求めて、永遠に努力する、その人を菩薩という」

というのもこの心でしょう。

天地の大いなるはたらきをからだ全体にいただいていると自覚して、それでいて尚且つ、日々努力を積み重ねてゆくのであります。

 
横田南嶺

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