信頼と希望
読んでいると、興味深い話がありました。
こういう話です。
ある時、ハンガリー軍の偵察部隊がアルプス山脈で猛吹雪に見舞われて遭難したそうです。
道が分からなくなってしまい、テントの中では、もう死ぬしかないのかと恐怖に慄いていると、一人の隊員がポケットから地図を見つけ出しました。
隊員たちは「これで帰れる」と落ち着きを取り戻してテントを出て、その地図を頼りにして無事、山を下りることに成功しました。
ここまではいい話です。
ところが、山を下りた後に、この地図で助かったのだと言って、改めてその地図を確認すると、なんとその地図はアルプス山脈ではなくピレネー山脈の地図だったという話であります。
違う地図だったのに、どうして助かったのでしょうか。
『文藝春秋』でこの話を紹介していた筆者は、
「つまり、地図の正確性は問題ではなく、隊員たちが勇気をもって一致団結できるよう「腹落ち」させることが重要なのです」
と指摘しています。
想像するに、道も分からない中で、途方に暮れていると絶望しかなかったのでしょう。
絶望の先はありません。
ところが、一枚の地図が見つかって、それを皆が信頼し、この地図を頼りにして行けばきっと帰ることができると希望を見いだしたのでしょう。
信頼と希望によって、皆の力が一つになって危機を乗り越えたのだと思います。
一月八日、一都三県には、緊急事態宣言が出されました。
今回の緊急事態宣言は、前回のとはずいぶんと異なって、主に飲食店の規制が強いものです。
他府県の往来も規制されず、イベントなども五千人以下、もしくは、定員の半分以下ならば可ということです。
学校の休校もありません。
八日の毎日新聞の一面にも「4都県に緊急事態宣言」と大きな見出しがありながらも、同じ紙面の「余録」には、
「専門家からは、飲食店の時短中心の策では2カ月後も今と同水準の感染状況が続くとの試算も出ている。
飲食店時短で感染拡大を抑えたかに見えた大阪でも再拡大の兆しがある。
人の移動、接触をより減らす策は必要ないのか。
爆発的な感染急拡大のニュースを聞き、政府のいう「限定的、集中的」施策の効果に疑問を抱く方も多かろう」
と指摘しています。
ともあれ、今は国の出された地図に従って進むしかありません。
円覚寺としては、国の基準に従って、今回は、ほぼ平常通りに拝観を受け容れ、朝の坐禅会も行う予定です。
飲食に関するものだけは、見合わせていただきます。
同じ八日には、PHPのからだスマイルという、健康情報の冊子から取材を受けました。
もちろんのことリモート取材です。
これも最初の頃はやりにくくて、自分では設定できずに、人の手をお借りして行ったのですが、この頃は馴れてきまして、自分で用意できるようになりました。
PHPは京都に本社がありますので、京都から出張することも無く、お互いに助かります。
少し前までは、リモートより実際に対面する方がやりやすいと思っていましたが、この頃はリモートだとマスクをしなくてもいいし、距離を保つ必要もないし、部屋で自由に話せるので、こちらの方が楽になってしまいました。
先方からの依頼は、
「コロナ自粛によって、体の健康ばかりか、心・精神の健康まで脅かされる危険な状況が生じており、今後さらに深刻化することが心配されています。
つきましては、横田管長におかれましては、心の健康を守るために注意しなければならないこととして、
①今どのような心の問題、危機が生じているのでしょうか、
②その原因をどのように考えればいいのでしょうか、
③心の問題に直面している本人、また、その周囲にいる人たちができる対処法はございますでしょうか、などにつきまして、できれば禅の教えを踏まえていただきつつ、ご教示賜りたい」
とのことでした。
どんな心の問題が生じているかについては、
まず、わたくしたちはなんと言っても、これまでの経験則に当てはまらない事態に遭遇して動揺していること、
そして、それがいつ終わるか分からない、先行きの見えない不安に襲われていること、そしてその不安が気力の減退につながっていることを話しました。
そこで、どうしていいか分からなくなって、混乱してしまうことでしょう。
特に、若者がたいへんな思いをしているのではないかと話しました。
若者たちが、コロナの前から将来に希望が持ちにくい状況にある中、この度のコロナ禍で、もっぱら若者は悪者扱いされてしまっています。
若者が無症状のまま、外に出掛けて感染を拡大させていると言われるのです。
そして、飲食や集まる場などを規制して、ストレスを発散する場も奪われています。
一層ストレスが溜まるばかりでしょう。
若者というのは、大勢集まって、飲んで食べてワイワイ騒ぐものでしょう。
若者たちの、鬱積した思いはどこにゆくのでしょうか。
それに、コロナ禍が新たな分断を生み出しているのではないかとも指摘しました。
八日の毎日新聞を読んでも、高級時計がよく売れているという記事があるかと思いきや、未成年の自殺が増えているという記事もあります。
コロナ禍の影響をあまり受けない人と、大きな打撃を受けて、貧困に苦しむ人との差がますます大きくなるのでしょう。
ピンチをチャンスにして活躍できる人と、対応できない人との差も出て来ます。
そうして一層分断が深まるのだと思います。
その原因をどう考えたらいいのかということについて、こういう時こそ仏教の智慧が必要になると伝えました。
苦悩の原因は、無知、分からないということでしょう。どうなるのか、どのようなものなのか、分からないのです。
そんな時こそ仏教の出番です。
仏教では、そもそもこの世はお互いの思うようにはならないものだと説いているのです。
世の中は、自分の都合の良いようにできてはいないのです。
地球は、そもそも人間の暮らしの為に作られたものではありません。
むしろ人間は地球上の新参者です。
ウイルスも自己を保存させようとして、人間に感染するのです。
同じように、人間も自己を保存させようとして、ウイルスを排除しようとしているだけのことです。
困ったことが起きても、必要以上に混乱することはありません。
私達には、今のウイルスをたちどころに消滅させることはできません。
今の状況の中で、私達は、頭の中で必要以上の混乱を生み出してしまうことがあります。
これは二重の被害をもたらします。
分断を更に強め差別を一層激しくしてしまいます。
仏教の智慧によって、これを防ぐことができます。
坐禅がそれでしょう。
しかし、いきなり坐禅が難しいようでしたら、変わっていくことばかりに目を向けずに、変わらないものに目を向けましょうと伝えました。
空や空気や、花や大自然は変わることはありません。
変わらないものに触れるとホッとします。
困っている人には、今日はきれいな空だとか、今朝花が咲いたとか、自然に目を向けるように話しかけてはどうでしょうかと伝えました。
そして最も身近な自然は、このからだです。
腰を立てて、ゆっくり呼吸をしましょう。
呼吸の要領を聞かれましたので、まず中に溜まっている空気をハッと吐き出して、鼻から空気を吸う、その時に新鮮な空気が胸いっぱい、お腹いっぱいに入ってくるのを感じて、有り難いな、うれしいなと思って吸う、そして鼻から静かに吐き出していくと説明しました。
息を吸って、思わず微笑みがこぼれるような呼吸をしましょうと伝えました。
編集者の方は、私のYouTube動画をご存じないようでしたので、ご覧いただくようにもお勧めしておきました。
さて、これからどうなることやら……
横田南嶺