牛の話
牛にまつわる禅の話はたくさんございます。
なんといっても『十牛図』は牛をたとえに使って、禅の修行を説いています。
これは、どうぞ拙著『真の自己を尋ねて 十牛図に学ぶ』をご覧ください。
簡単な解説は、YouTubeにもございます。
唐代の禅僧南泉普願禅師が、いよいよお亡くなりになる時、
修行僧が、和尚は亡くなってどこに行かれますかと問いました。
すると南泉禅師は、山の麓で一頭の水牛になって生まれてくると答えました。
僧が、私もお伴してよろしいでしょうかと聞くと、
私についてくるのなら、自分の食べる草をくわえて来いと答えています。
同じ時代に活躍された潙山禅師というお方もまた、死んだ後には、麓の檀家の家に一頭の水牛となって生まれ変わって来ようと言っています。
単に輪廻の苦しみから逃れることを求めるのでなく、牛に生まれて、農家の方と共に働きながら生きてゆくという菩薩の願いを表しています。
「牛を桃林の野に放つ」という禅語もございます。
「馬を華山の陽(みんなみ)に帰し、牛を桃林の野に放つ」
と対句になっています。
中国の古代の話です。
この場合の牛や馬は戦争のためのものです。
周の武王が殷の紂王を討伐したのちに、軍用の馬を華山の南方に帰し、牛を桃林の野に放って再び戦争をしないことを示したという話です。
天下泰平になったことを表しています。
このお正月にあたって
「怠らず行けば千里の外も見ん 牛の歩みのよし遅くとも」
という道歌をよく書いたものですが、これは『禪林世語集』にある和歌です。
最近知人から面白い話を教えてもらいました。
インドの古い民話だそうです。
九十九頭の牛を持った人がいました。
その人は金持ちながら、欲深い人でした。
その人は、牛をあと一頭手に入れて百頭にしたいと思いました。
そこで、あれこれ考えて、遠くの町に住んでいる幼なじみのことを思い出しました。
優しい正直な人だったのです。
金持ちはわざとぼろぼろの服を着て、更に体を泥やほこりまみれにしました。
そして幼なじみの彼を訪ねました。
どうしたのかと心配して聞く彼に、金持ちは答えました。
事業に失敗して食べるものもない、家族にも逃げられて、もう死ぬしかないと。
幼なじみの彼は、優しい性格だったので、
「そんなに困っているのなら、何かしてあげたい、私は牛を一頭しか持っていないが、これがなくてもなんとかなるから、持っていってくれ」
と言いました。
当時のインドでは牛は貴重な労働力であり、財産でありました。
金持ちは、うその涙を流しながら、おかげで助かると言って、牛を連れて帰ったのでした。
欲張りの金持ちは、しめしめこれでやっと百頭になったと喜びに浸りながら眠りにつきました。
大事な一頭をあげてしまった幼なじみも、人助けができてよかったと思いながら喜びに浸って眠ります。
インドの民話は、どちらの喜びが深いかと問いかけます。
金持ちの方は、欲張りですから、きっと百頭で満足するのは一瞬で、つぎには百五十頭にしたい、更に二百頭にしたいと欲は増大していくことでしょう。
結果、いつまでも満足することはありません。
友人を助けた幼なじみの喜びというのは決して消えることなく、生涯続いてゆくのだというのです。
この民話が説いているのは、してもらった喜びよりも、してあげた喜びの方がより深くて大きいということなのです。
その通りで、何かを得る喜びよりも、何かを与える喜びの方が大きいものです。
喜んでもらう喜びです。
しかし、この民話には少し考えさせれるところがあります。
インドの昔ならそれでよい話で終わることでしょう。
もしも、同じようなことが現代に起こればどうでしょうか、牛をもらった者は、喜んで、しめしめうまく友人をだまして、牛を百頭にしたと、SNSに載せたりしてしまいます。
牛をあげた方も、そのSNSを見てしまいます。
なんだ、自分はだまされたのかと気がつきます。
自分は最後の一頭をあげたのに、彼は百頭もの牛をもって贅沢に暮らしていると気がつくと、喜びは一瞬のうちに憎悪に変わってしまうことでしょう。
しかし、そうなってしまっては残念なことになってしまいます。
せっかくの善行為が、憎しみという悪業に変わってしまうのです。
人をだまして悪業を作ったのは、金持ちの方なのです。
幼なじみは、人に施す善行為をしただけなのです。
事実はそれだけなのです。
たとえ、だまされたことが分かったとしても、だました行為の報いは金持ちが受けるだけのです。
自分が積んだ善行為まで台無しにしてしまうことはありません。
「自分の成した行為の報いは本人が受けるだけ、自分の成した善行為は変わらない」と思って、やはり心静かでいることの方が賢明なのだと思います。
仏教では、行為とその動機を大切にします。
人をだまそうとして行った行為は悪業です。
人を助けようとして行った行為は善行為なのです。
悪業は悪の報いを受け、善業は善の報いを受けるのです。
だました相手に憎悪を抱くのは、せっかく善行為を積んだのに、悪業を重ねてしまうだけのことなのです。
牛の話から脱線しました。
横田南嶺