良書拝受
『仏教の誕生』、河出新書であります。
オビには、
「仏教はなぜ生まれたのか?
二千五百年もの間、「生きることがつらい」と感じる人たちを救い続けるユニークな「社会」がある。
最高にわかりやすい!
佐々木閑の連続講義
「仏教とはなにか」」
と書かれています。
今年の四月から、佐々木先生が始められたYouTubeでの仏教講座を書籍にされたものです。
私もずっと拝聴していて、これは十分書籍になる内容だなと思っていましたら、案の定出版社が目を付けてくださったようです。
これで文字によって学ぶことができますので、より一層深く学習できます。
有り難い本をいただいたと思って、寺に帰ってくると、
今度は曹洞宗の藤田一照さんから、
新著『現代「只管打坐」講義』という、630ページにも及ぶ大著を送ってくださいました。
『現代「只管打坐」講義』、サブタイトルが、
「そこに到る坐禅ではなく、そこから始まる坐禅」
とあります。
オビには、
「あらゆる「~のため」の放棄こそが坐禅。
坐禅がうまくいかないとき、
〈もっと頑張ろう〉と努力の量を増やそうとするのではなく、
努力の仕方を見直し、努力の路線を転換してみてはどうだろうか。
釈尊、道元禅師と私たちを繋げる坐禅とは何かを思索する、
『現代坐禅講義』以後の探究の軌跡」
と書かれています。
2012年に、『現代坐禅講義』という一照さんの本が出ました。
これが大きな反響でした。
私もこの本を読んで、これほどまでに坐禅に真剣に取り組んでおられる方がいるのだと感銘を受けたのでした。
有り難いことに、その後、一照さんに実際お目にかかることができ、いろんなことを学ばせてもらって、『現代坐禅講義』がKADOKAWAで文庫化される時には、そのオビを書かせていただいたのでした。
『現代坐禅講義』という本も大部な書物であります。
坐禅を専門に行う、マニアックは書物と言えるかも知れません。
それが、文庫化されるということには、驚いたことでした。
それほどまでに、一般の方々でも坐禅を真剣に求める方多いのだと感じたのでした。
逆に、坐禅を専門に行っていると自負する禅僧が、どこまで真剣に坐禅をしているであろうかと反省させられました。
僧堂の坐禅というのは、やはり修行であるという一面を強調して、無理に坐らせる傾向があります。
初めのうちは、足を組むのも痛くて大変なのですが、それを無理やりに足を組ませて、動くと叱り、睡眠不足の生活によって、眠気に襲われると警策で厳しく打つという、苦行に近いものがあります。
もちろんのこと、苦しい行に耐えるということには、意味がありますものの、それだけでは、本当に身につかないものです。
過去の体験で終わってしまいがちなのです。
「僧堂に行って坐禅嫌いになる」と一照さんは仰っていました。
私もまさにその通りだと思ったのでした。
「修行は楽しいものでなければならない」と一照さんが言われたことにも衝撃を受けました。
私などは、長年苦しみに耐えてこそ意味があると思い込んでいましたので、目から鱗の思いでした。
この本を開いて読んでいると、初めの方に興味深い話がありました。
とある定時制の高校の生徒の様子なのです。
「最初の授業のある生徒の姿が、ほおづえをついて上半身を机にあずけて、先生をぼんやりと見上げているのだそうです。
それから数ヶ月後には、背筋がしゃんと伸びて腰が立ち、先生とまともに二時間向き合っていたというのです。
この話を紹介して、一照さんは、「この青年の姿勢の変化が、誰かにそうするように言われたからではなく、先生の言っていることをちゃんと聞こう、
しっかり受けとめたい、深く学びたいという本人自身の内なる促しによって自発的に起きた自然な変化だった」
というのです。
そして、
「普通なら、こういう姿勢の悪い生徒(=授業態度の悪い生徒)がいると、先生は「おいお前、背筋をぴんと伸ばせ!もっとしゃんとしろ!態度が悪いぞ」
と叱って、無理やり直させるだろう。
しかし、こういう他律的な強制・矯正は一時しのぎでしかないことは火を見るより明らかであろう。
先生が見ていなければすぐまた元にもどってしまう」
と書かれています。
私達のやっていた修行は、まさにこれに近いものだと思いました。
「背筋を伸ばせ、腰を入れろ」といって、無理やりに坐らせるものでした。
そうしますと、指導者が見ていないと、だらけますし、道場を出てからも身につくというものではありません。
それでも何年も何年も道場に居れば、ようやく身につくものではあります。
しかし、年月がかかるものです。
一照さんは、この定時制高校の先生の言葉を紹介されていました。
「まるごと変わる – それはふかいところで何かが解きはなたれて、
一つの持続する自己運動がはじまることで、外から加わる力で変わってゆくのではない。
自分の中から次々と新しい自分を生み出して変わっていくのだ」
というのです。
まさしく、これだと思うのであります。
姿勢というのは、単に背筋を伸ばす、腰を入れるという肉体的なことではないのです。
よし、学ぼう、今の自分を変えてゆこう、もっとよくしてゆこうという思いが、姿を内面から作り上げてゆくのです。
そして、そのような思いを抱かせるようにすることこそ大切なのです。
一照さんの新著は大部で、これまで一照さんの長年の求道の集大成のようなものですが、どこの一節からでも、よし自分を変えてゆこうという思いを起こすことができる本なのであります。
また一月に、一照さんに円覚寺にお越しいただいて、修行僧たちの為に坐禅の指導をしていただきます。
有り難いご縁であります。
佐々木先生に学び、一照さんに学び、私などももっと早くからこういう先生方に学んでおけば、無駄な骨を折らずにすんだと思って、今の修行僧たちに、初めから学んでもらうようにしています。
横田南嶺