布薩の講義と実習
主に花園大学に通う学生さんたちが、修行道場に準じた生活をしているところです。
塾頭さんという指導する和尚さんがいらっしゃって、他に数名指導員という若い和尚様方が、学生さんたちの面倒をみておられます。
毎朝、朝課というお勤めをして、坐禅をして、日中は大学の授業に出て、夜はまた坐禅するという日課を送っているのです。
今は三十数名の学生さんたちが、修行されています。
私が花園大学の総長に就任してからは、毎年に大学摂心に出向いて、提唱という講義をして、その後、禅塾の塾生さんたちと質疑応答の懇談の場を設けていました。
今年は、大学の摂心自体が、コロナ禍によって無くなってしまい、禅塾の塾生さんたちとお目にかかる機会もなかったのでした。
申し訳のないことだなとずっと気にかかっていました。
そうした折りに、只今の塾頭さんである羽賀浩規和尚から、私が取り組んでいる「布薩」について知りたいというご要望があったのでした。
布薩の資料だけはすぐにお送りしたのですが、実際に現場に行って講義を実習をしようということにさせていただきました。
塾頭さんは、花園大学の佐々木閑先生と私との対談のYouTubeをご覧になって、布薩に関心をお持ち下さったようなのです。
有り難いご縁です。
布薩について学んでもらえるということだけでも有り難いことですし、禅塾の塾生さんたちにお目にかかれていないという思いも解消されますので、私としましては二重の喜びであります。
塾生さんたちは、六時過ぎまで大学の授業があって、午後七時に晩ご飯だというので、六時半頃から七時過ぎまで、講義と実習をさせてもらいました。
七時の晩ご飯が遅れないようにしようと思って話を始めたのですが、塾生さんたちが実に熱心に聞いてくださったので、こちらも力が入って、十分ほど時間が超過してしまいました。
お腹を空かせた塾生さんたちには、申し訳のないことでした。
いつものように、戒とは、「~してはいけない」という禁止事項というよりも、「良き習慣」であること、そしてこの「良き習慣」を身につけることが、禅定の土台となるし、この世に於いて一番安らかに生きる道であることから話をしました。
日本の仏教では、「戒」があまり重視されないのは、日本のお坊さん自身が戒を守っていないということも原因かと思います。
しかし、「戒」を守れていないから、駄目だというのではなく、戒を十分に守れていないと意識して暮らすことが尊いのだというように発想の転換が大事だと話をしました。
人間は、駄目だ駄目だと思っていると、本当に駄目になります。
これはいいことだ、いいことだと思っている方がいいことになるのです。
お釈迦様の教えの根本には、正しく生きる「八正道」がございます。
しかし、何が正しいのかというのは難しいことです。
それには、これで正しいのだろうかと堪えず自ら点検し反省し、気づいていくしかありません。
例えば、正しくまっすぐに坐るということを私もずっと研究していますが、これが正しくまっすぐだというのは簡単ではありません。
これが正しいのか、まっすぐになっているのか常に点検し、反省し、確認して探求し続けることが、一番正しくまっすぐになる道であります。
先代の管長から、常に禅僧は如何にあるべきかを問い続けることを教わりました。
どうあるべきという答えがあるわけではありません。
絶えずどうあるべきかと問い続けることこそが、大切なのです。
その自らに問いかける基準が「戒」であります。
戒の根本精神は、人を傷つけないことだと話をしました。
人を殺めるのはもちろんのこと、言葉や行いで傷つけないことです。
簡単のようで難しいのです。
特に言葉などは、知らないうちに人を傷つけているのです。
ではどうしたらいいかと言えば、絶えず人を傷つけるようなことはなかったか、自ら点検し反省することしかありません。
戒を意識して暮らすことを習慣にするのです。
習慣にすれば苦痛ではありません。
そして良い習慣が良き人生を作り上げます。最も幸せに生きる道なのですというような事を、お若い塾生さんたちに話したのでした。
若い青年たちが、私のつまらぬ話を目を輝かせて聞いてくださったことに感激しました。
こういう青年たちによって、新しい世が開かれていくのだと思いました。
そして彼等が、戒を意識してくれたならば、きっと明るい未来があると確信しました。
横田南嶺