超個の個
思えば、たいへんな一年でした。
四月二日の入学式には、出席すべく万端準備していたのですが、その直前になって、京都市内の大学で新型コロナウイルスの感染者が出て、入学式は急遽取りやめになり、前期はオンライン授業になったのでした。
私も今年の前半は、大学に出講せずに、円覚寺で録画したものを送っていたのでした。
都内の大学では、後期も引き続きオンラインという所が多いようですが、花園大学では、後期は対面の授業も行うようになりました。
ただし、学生のみに限ったのでした。
私の担当している「禅とこころ」という講座は公開講座で、学生の授業であると共に、広く一般の方々にも聴講していただいていたのでした。
それが学内だけに限り、しかも大学に構内に入るには、全員検温するという徹底ぶりであります。
ソーシャルディスタンスを確保するために、広い大講義室を使っての講座となりました。
今年は、鈴木大拙生誕百五十年という年でありますので、「禅の思想」と題して講義をしてきました。
大拙先生の『禅の思想』という書物を手がかりに、はじめは達摩大師の語録から紹介して話を進めてきました。
最終日の講義では、大拙先生が、『禅の思想』で最も説きたかったであろう、「超個の個」ということについて、話をするつもりです。
これは難しいことなので、学生さんたちにどのように説明したらいいのか、随分考えました。
青原惟信禅師の逸話をもとに話をしてみようと思っています。
青原禅師が、まだ修行する前には、山は山であり、水は水であったと言います。
これは、問題ありません。その通りなのです。
修行して悟りを開くと、山は山でなく、水は水でなくなったというのです。
そうして、さらに修行してきてみると、やっぱり山は山であり、水は水であったという話です。
これはいったい何を言っているのでしょうか。
山は山であり、水は水である、これは現実の相対差別の世界です。
ここには、常に比較があり、争いがついてまわります。苦悩のやむことのない世界です。
大拙先生も、幼くして父を亡くして、ご苦労され、世の中はどうしてこんなに不公平なのかと歎かれました。
不平等であり、不公平な世界なのです。
山は、高い低いの差別があるのです。
そこから修行してみると、山は山でない、水は水でないという世界が開けます。
これは絶対平等の世界であります。
大拙先生は、そこのところを、『禅の研究』という書物のなかで、
「見る者と見られる山とが一体になりきつてしまつた時、山は山でなくなつてしまふ」
と表現されています。
これは大拙先生が、二十九歳の時に、アメリカに渡る前に、円覚寺で坐禅をなさっていて、
「臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明かりの中の松の巨木と自己との区別をまったく忘じ尽くした、「自他不二」の、天地と一体の自己を体得した」(『世界の禅者-鈴木大拙の生涯-』より)
という体験がもとになっています。
みんな平等で一つになった世界を体験したのでした。
しかし、そこで終わりではないのです。
大拙先生は、『禅の研究』のなかで
「ではどうなのかといへば、山が全く私の存在の中に融けこんでしまひ、私もまた山の中に吸収されて、山と私とがぴつたり一枚となりきつた時にこそ、山はほんたうに山なのである」
と説かれていて、そこからまた「山は山であり、水は水」の世界に戻るのであります。
しかし、戻るといいましても、差別の世界に戻るのではなく、差別でありながら平等の世界なのです。
天地無限の命が、この小さな身体に生き生きとはたらいているのであります。
大いなる自己に裏打ちされた自己を生きるのです。
確かに差別はありますものの、それを包み込む大いなるものが自覚されているのです。
山は山というのが差別の世界であり、「個」の世界です。
そこを越えたところが、山は山でないという平等の世界、「超個」の世界です。
そして、その「超箇」が「個」に現れるのです。
また依前として山は山となるのです。
これが「超個の個」であり、「平等即差別」の世界なのです。
「個」の世界、差別の世界だけみていては苦しみはやみません。
やはり坐禅して、「超個」という大いなるいのちに目覚めることです。
その「超個」が「個」に現れている「超個の個」を自覚するのです。
大いなる仏のいのちが、いまここで、この一呼吸に現れていることを自覚して生きるのです。
差別の暮らしながら、そのままに平等の世界に裏打ちされているのです。
その自覚が「安心」になるのであります。
はたして、学生さんたちにこの「超個の個」の話が伝わるでしょうか…
横田南嶺