言葉の限界
「陸地を歩いてきた亀が、池に戻って魚にそのことを話した。
魚は「陸ではもちろん、泳いできたのでしょう?」と言った。
そこで亀は陸地は固く、その上では泳げないので歩くのだ、ということを説明しようとした。
しかし魚は、そんなことはありえない、自分のすむ池と同じく陸地も液体で、波があり、潜ったり、泳いだりできるに違いないと言い張った」
という話であります。
水の中でしか暮らしたことのない魚にとって、陸地というのがどんなものなのか想像はできません。
水の中での暮らしの延長としてしか、とらえることはできないのです。
陸地というのはどんなものであるのか、魚に教えてあげることは困難です。
できることと言えば、魚が水中で想像するようなものは、すべて違うということしかありません。
「空」の世界も同じようなものであります。
私たちは、毎日「色」の中で暮らしています。
たとえ「空」の世界の話を、般若心経で学んだりしても、結局は、「色」の世界の延長でとらえているだけのことであります。
そこでまず私たちの使っている言葉には限界があると知ることが大切です。
言葉によってすべて表現できるわけではありません。
「不立文字」というのは、そのことを言っていると思います。
そして、更に、言葉で表現しようとしたり、思考の中でとらえようとすることをやめることであります。
「没可把(もっかは)」という言葉があります。
とらえようがないという意味であります。
永平寺の森田悟由禅師は、何を問われても、「没可把」と答えてすましたといいます。
不親切のように思われますが、どのような言葉で表現しようとも、その言葉から類推されるものは、皆全て、魚であれば、水中での想像に過ぎないのです。
私達であれば、「色」の世界での想像に過ぎないのです。
そこで、「空」について語る場合、ほとんど否定的な表現によってしかできないのであります。
「色」の世界は差別の世界です。
「空」の世界は平等の世界です。
私達は、差別の世界で暮らしています。
平等といわれても、差別の無い様子としか想像できません。
「空」は平等であると説明されても、「色」の世界、差別の世界での想像に過ぎないので、平等でもないと説かれるのであります。
龍樹は、八不中道を説かれました。
「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」
生じることもなく、滅することもなく、断でもなく、常住でもなく、一でもなく、異でもなく、来ることもなく、去ることもないというのです。
『般若心経』でも「不」「無」によって否定される表現が続きます。
『大般若経』なども同じなのです。
では、どうすればいいのかと言えば、分かろうとしないことです。
私達が、知ることは、なべてかたよりがあり、こだわりがあり、とらわれがあるものです。
ではこだわらないぞと力んでいると、それがまたこだわりになるのです。
そこで、先日の藤田一照さんが引用された道元禅師のお言葉の通り、
「ただ、ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれる」のみなのであります。
長年独参という禅問答をしてまいりましたが、そのほとんどは、駄目だ、違うと言われるのみなのです。
最後まで、これでいいというものはありません。
とらえてはいけないのです。
つかまえてはいけなのであります。
とらえた瞬間、つかまえた瞬間に、すでに違うのであります。
水の中で、悟ったような気になっていても、陸地の様子とはかけ離れています。
言葉に限界があり、体験とて限界があるのです。
ただ、毎日新たに生まれ変わり、新たな坐禅を、一切手放しで行うのみなのです。
いやいや、行うのみだと意識をすれば、もはや天地の隔たりであります。
そうして、ある時気づくのです。
水の中だと思っていた、その水に底があることを。
底に支えられていることを。
底は陸でもあることを。
水の中は、陸に支えられていることを。
「色」の世界は、「空」の世界にささえられていることを。
「色」の世界でのあらゆる営みは、すべて「空」の中にあることを。
そうはいっても、これも言葉の説明であって、限界があるのです。
横田南嶺