ゆっくり、無理なく、気持ちよく
先日は、佐々木奘堂師にお越しいただいて、更にこのたびと続けて坐禅を教わっています。
一照師とは、これまた数年来のご法愛をいただいています。
一照師は、もともと初めて坐禅をなされたのが、円覚寺の学生坐禅会だったそうなのです。
心に深く響くものがあったとか、もっと本格的にやってみようと志されて、出家されたのでした。
その時に相談された老師が、曹洞宗の安泰寺を勧められたので、一照さんは安泰寺で御修行されました。
安泰寺は、沢木興道老師、内山興正老師という曹洞宗の名だたる方が指導されていた道場であります。
一照師のお話をうかがっていても、沢木老師、内山老師の言葉がよく出てきます。
内山老師の薫陶は深く受けられていると思います。
一照師の特徴は、なんといっても実に様々な身体技法を心得ておられることであります。
そしてそれがまた、いつもお目にかかるたび毎に新しいのです。
私よりも十歳年上でいらっしゃるのですが、その飽くなき探究心には、頭が下がります。
今回も、はじめに最近教わったという元大相撲力士一ノ矢さんの四股を指導してくれました。
四股がトレーニングとしても優れているということは聞いていましたが、一ノ矢さんのなさるのは、また独特で、今の大相撲で見るようなものとはかなり異なります。
それが本来の四股だったというのですが、その腰割り、四股というのは、腰を立てるうえでも大いに参考になり、つながるものがあると感じました。
一照師は、坐禅修行の上で大事なこととして、「ゆっくり、無理なく、気持ちよく、一生懸命ではなく丁寧に」ということを教えてくれました。
これなど、どれも頭の痛い言葉です。
私達の修行は、ついつい、せかせか、急いでしまいます。
無理なくではなく、無理をすることに意味があると思ってしまいがちです。
気持ちよくというより、苦痛に耐え忍ぶことに意義があると思ってしまいます。
丁寧さにかけてしまうことがよくあるのです。
本来の修行の意味をはき違えていると反省することが多くあります。
また、一照師は、よく道元禅師の、
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、ほとけとなる」
という言葉を引用されます。
「仏のいへになげいれ」とは、具体的に重力に任せて大地に身を委ねることが教えてくれました。
そうすると、反作用で腰から背骨へと垂直の方向に立ち上がってくるのだと示されました。それが「仏のかたよりおこなわれる」ことだというお示しでした。
具体的に身体を通して、実に丁寧に教えてくださいますので、雲水たちも熱心に学んでくれていました。
先日の奘堂さんといい、一照さんといい、坐禅に情熱をもって打ちこまれる方に接すると、それだけも学ぶことが多いものであります。
良き仲間、良き友に恵まれることは、この道のすべてであると、お釈迦様が仰せになりましたが、その通りだと思います。
これからも学び続けようと思うのであります。
横田南嶺