聖意測り難し
この方のところで、慈明禅師が、寒い夜に、皆が坐禅をやめようとしたのに、敢えて坐禅をして、眠気が襲ってきたら、錐で股を刺して眼を醒まして坐禅をされたという話は、よく知られています。
この頃に、慈明禅師や大道谷泉禅師、大愚禅師、瑯琊禅師など六七人と共に参禅していたのでした。
あまりに厳しい指導なので、大勢の修行僧はいなかったというのです。
なぜ大勢いなかったのか、『宗門武庫』という書物に、そのいわれがございます。
汾陽禅師が、ある時に夢をご覧になりました。
夢の中で、亡くなった両親が出て来たのだそうです。
中国の先祖供養では、亡くなった方に対してその子孫は、亡くなった方があの世でも幸せに暮らせるように、こちらから、お金を送ったり食べ物を供養しなければならないという考えがあったようです。
紙のお金を作って、それを燃やすことによってあの世に送れるということだったのです。
汾陽禅師の両親が夢に出てきて、紙のお金やお酒やお肉を送れと言ってきたというのです。
さすがの大禅師も世俗の風習には従わざるを得ずに、紙のお金やお酒やお肉を置いて供養したのでした。
位牌を設けてご供養して、その後お酒をお肉を振る舞ったのでした。
紙のお金は燃やしたのですが、残ったお酒やお肉をお寺の者に振る舞おうとしましたが、お寺の役を務めている僧たちは、そんな戒律に背くようなことはできないと断りました。
すると汾陽禅師お一人は、そのお酒を飲みお肉をいただいたのでした。
それを見た僧達は、酒や肉を食べるような僧を、師とすることはできないといって、みな自分の荷物をまとめて寺から出ていったのでした。
汾陽禅師のもとに残ったのは、慈明禅師や大愚、大道など六七人のみだったというのです。
汾陽禅師は、翌日お説法をされて、
「あんなに大勢いた連中も、唯一盃の酒と肉と、わずかな紙の紙幣を使っただけで、みんな出ていった。
ここにいるものは、枝葉のようなものはなく、真実の志ある者だけが残った」
と言われたのでした。
最後の言葉は、
「この衆には枝葉無し、唯諸々の貞実のみ有り」
という『法華経』にあるものです。
お釈迦様が『法華経』をお説きになろうとされたときに、既に悟りを得たと増上慢になっている五千の比丘達は、その座から去っていったのでした。
そこでお釈迦様は、なんと言われたかというと『法華経』の原文では、
「爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、
我が今此の衆は、復枝葉無く、純ら貞実のみ有り。
舎利弗、是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。
汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし」
となっています。
残った者達は、枝葉のような者はいなく、真実の志を持った者だけになった。
思い上がった者は退いてよい、あなたはよく聞きなさい、私は残ったあなたの為に説きましょうということです。
そうして『法華経』が説かれたのでした。
『法華経』の話はよく知られたものですが、それを用いた汾陽禅師の話は理解し難いところです。
わざと破戒の行為をするのは、
「人物の表面しか見ない俗物への非難であり、また真実を識る者を択び分ける方便でもある」と小川隆先生は、解説くださいました。
道元禅師のお言葉に、
「無上菩提を演説する師に値わんには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ」
とあります。
この上ない仏道を説いて下さる師にあう時には、その人の種姓などによって観てはならない。
又顔や姿によって判断してはならない。
更にその人の欠点を拾い上げたり、その行いの是非を論じてはならないというのです。
そういう教えも分からないではないのですが、私などには汾陽禅師のお振る舞いには理解し難いところがあります。
「聖意測り難し」という言葉がありますが、悟った方のお心というのは、私の如き凡愚の者には測り難いものなのでしょう。
言わんとするところは、如何なる困難にもめげずに乗り越えてゆけという教えなのだと思います。
横田南嶺