我とは何か
我というものは本来無いのだという真理です。
我が物、我が身体、我というものは無いというのです。
それでいながら、自己こそ自己のより所であると説いたり、どんな所でも自ら主体性を持って生きよということを説いたりします。
これはいったいどういう訳でありましょうか。
大森曹玄老師の『驢鞍橋講話』を読み返していると、素晴らしい一文がありました。
我とは何かということについて語って下さっています。
我とは何かを考えるには、まず大森老師は
「後天的な妄想ででっち上げた自我というものをまず粉砕することである」
と説かれています。
「そして大きな命とともに生かされて生きる」ことが大切なのだと説いています。
無我であるという場合の、否定されるべき「我」というのは、大森老師の言葉では、「後天的な妄想ででっち上げた自我」にほかなりません。
私達の六根(眼耳鼻舌身意」という感覚器官が外の世界に触れて、感じて思って、考えを形成します。それらが積み重なって自我というものを作り上げているのです。
全くの砂上の楼閣のようなものです。
しかし、これが実在だと思い込んでしまって、執着してしまいます。
真の自己というのは、
「我々は時間的にいえば無限の祖先とつながっている。
親から祖父母、それからずっと遡っていけば、つい宇宙の生成力につながる」
という大いなる命であります。
それは更に、
「横には我々はすべての空間的存在と連なっている。
鼻からは空気を吸う。皮膚からは太陽光線を吸収し、一切の宇宙的なものを吸収して、そのまん中に自分がある」
というものです。
大森老師は、
「時間的に無限の時間、空間的に無辺の存在、この時間性と空間性の交差する中心に私がある」という、これが真の自己なのです。
無位の真人なのです。
それに対して
「その時間・空間を切り取って抽象したものが自我である」
と明確に示して下さっています。
その大いなる命に目を向けずに、たった一メートル数十センチの肉体と、わずか数十年の経験だけが自己の全てであると思い込んでいるのです。
それは「観念的につくり出した自我」なのです。
大森老師は、それに対して、
「実存とは何であるか。
飯を食い、糞をたれるだけのものが実存だというなら、それこそ抽象したものである。
親から祖先へつながる広大な命を忘れている。
ニンジン、ゴボウ、大根、魚、牛肉、そういうもの一切を遮断して自分は生きられるだろうか。
一切の空間、無限の命と連なって、自分というものは初めて生存できる」
のだと説いてくださっています。
天地無限の命を今、私達は生きているのです。
更に、そのことに目覚めたらどうなるのかというと、
「我々はそれらの大きなものに抱かれて生かされているのだから、生かされっ放しでは借金になってしまう」
というのです。
「ならば、生かされた立場から生きる立場に転換させねばならない。
大きな生命よって生かされている私が、その大きな命に報いるために自ら生きる。
それが人生というものである」
これが主体性をもって、授かった命を生かして生きるということです。
大森老師は、
「それを現在生きている自我だけを一切の関係から抽象して自分だと言うのは、とんでもない間違い」だと指摘されているのです。
否定すべき我とは、抽象的な思い込みの自我です。
目覚めるべき、そしてより所とすべきは、大いなる命に生かされている我であります。
そのことに目覚めて、授かった命を生かしてゆこう、何かご恩返しをしてゆこうという生き方に転じてゆくのであります。
大森老師の明解な解説に感服しました。
横田南嶺