専門家とは
十二月一日の記事の題は、
「本当の専門家って何?」というものです。
この記事を読んで考えさせられました。
香山先生は、医者になって三十年以上経つというベテランの先生です。
その先生が、先日診察室でショッキングなことがあったというのです。
患者さんの方から、自分はこの病気ではないかと伝えられたのですが、その病名を香山先生はご存じなかったというのです。
香山先生は素直に、「その病気はじめて聞きました」と伝えると、その患者さんは、スマートフォンをとり出して、その病気について解説したページを見せてくれたというのです。
「ベテランなのに知らないことがあるなんて情けない」と弱音を吐く香山先生に、若手の医師は、「患者さんの方が検査や治療に詳しいってこと、ときどき経験します」となぐさめてくれたという話です。
ひと昔前ならば、一般の人たちが医学書を見る機会などなく、医師が説明して治療すれば、それで喜んでもらえたのでしょう。
しかし、今は違うと香山先生は指摘されます。
「その気になれば医学書でも学術論文でも、ネットから簡単にアクセスすることができる。
「専門家にしかわからないこと」などほとんどない。
油断すると私のように医者の方が知識がない、ということにもなりかねない」
というのです。
更に香山先生は、
「ちょっとした知識や技術だけでは「専門家と名乗れない時代がやって来た」と仰います。
医者のような専門家はどうあるべきか、香山先生が若手の医師に相談すると、
「先生は気さくな雰囲気で患者さんをホッとさせるワザがあるから、だいじょうぶです」と言われたと書かれていました。
そして最後に、香山先生は、いろんな専門家に聞いてみたいと言われます。
「情報があふれるこの時代、あなたが一般の人より秀でているのはどんなところ?」と。
これは、仏教の世界でも同じことであります。
専門書など、容易に手に入らなかった時代とは違って、今や何でも学べます。
佐々木閑先生の高度な講義でも、今やYouTubeで学ぶこともできるのです。
仏教や禅の論文でも、今や学会で発表されたようなものは、おおむねPDFでネット上で読むことができます。
かつては、お坊さんのことを「知識」と喚んだのですが、今や知識ならば一般の人もそれ以上になっています。
もっとも「知識」の漢語としての意味は、諸橋先生の『大漢和辞典』を調べても、
「よく物事の道理をわきまえ知る、意識の外界を認識する作用の方面をいう」とあって、
更に二番目に「知人、知りあい」という意味があり、
三番目に仏教語として、「高僧、善知識」という説明があります。
「善知識」とは、「善き友、真の友人。仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人をいう」のであります。
果たして今の我々僧侶が、「仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導く」ということができるでありましょうか。
私も、「気さくな雰囲気で相手をホッとさせる」だけならば、少しはできるかもしれませんが、果たしてそれだけでいいのか考えさせられます。
香山先生の記事を読んで、大いに反省させられています。
横田南嶺