白隠と東嶺
将来白隠禅師の後継者となった東嶺和尚を、白隠禅師は最初に出合った時から大いにその力量を認めて、大切に育てられたのでした。
ただ東嶺和尚は病気がちであり、白隠禅師のもとに来たものの故郷に帰って療養することになりました。
しばらくお暇するに当たって、白隠禅師にご挨拶したついで、「菩薩の行願」について尋ねました。
「私は八歳のときに、父に連れられて十王図(地獄の絵)を見たことがあります。
そのときに、地蔵菩薩が地獄の衆生をあまねく救われると聞いて、大いに仰慕の念が生じて、それより衆生を済度したいという願を抱くようになりました。
これが私の初発心です。
このような心は仏祖の教えと隔たりがあるのでしょうか」と。
話を聞いた白隠は嗟嘆して言いました、
「素晴らしいことだ、そなたは菩薩の行願をよく具えておる。
私は昔、信州飯山の正受老人のところで修行していた時に、正受老人が『そなたは何のために仏法を求めるのか』と問われたことがあった。
「私は子供のときに地獄の苦悩の恐ろしさを知りました。
それを逃れるために出家しました」と答えると、老人は眼をむいて言われた、
『己のことばかりを考え、利他の念のない者が、いくら修行しても何にもならん」と。
「では、どのように心得たらよろしいでしょうか」とお尋ねすると、老人はしばらくして言われた、
『菩薩には四弘の誓願というものがある。
どうしてこれに依って修行せぬか』と。
私はそれ以来、四弘誓願という慈悲の船に棹さして来たのだ。
今思うに、そなたは正受老人の言われた意によく称っておる」と讃嘆してとどまることがなかったというのです。
白隠禅師は、十一歳の時に、母に連れられて昌源寺にお参りにゆきました。
そこで伊豆窪金(雲金)の日厳上人が、地獄の説相を説くのを聴かれました。
上人の弁舌は実に巧みで、熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる焦熱地獄や、身が裂けて真っ赤になる紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話しました。
まだ少年だった白隠禅師は、これを聞いて身の毛のよだつ思いがしました。
そして心に思いました、
「自分は常日頃、好んで小動物を殺してしまうなど、乱暴をして来た。
だからきっと地獄に堕ちて永遠に苦しみを受けるだろう。
もはや逃れようはない」と。
全身が戦栗して、何をしていても心が穏やかではなくなりました。
そこで地獄から逃れるにはどうしたらよいか、母に聞くと、天神様を拝むとよいと教わって一心に天神様を拝んだのでした。
それから白隠禅師の長い修行が始まるのです。
同じ地獄の絵を見ても、その苦しみからどう逃れるのかと求めるのと、そこに苦しんでいる人たちをどう救うのかで、大きく分かれます。
東嶺和尚は後者でありました。
もちろんのこと、白隠禅師もはじめは地獄の苦しみから如何に逃れるかを求めて修行したのですが、その後に如何に救ってゆくかという菩薩の願いに生きられるように転じてゆかれました。
初発心も大切ですが、初めの動機が修行するうちに転じてゆくこともあるのです。
横田南嶺