形と精神
「形とその精神」について論じておられるのであります。
少々引用させていただきますと、
「われわれはよく「形を写さないで精神を汲む」などというが、その精神にも深浅がある。
そのものをしてほんとうに真正にそのものたらしめるゆえんのものを握らなくてはならぬ。
形はそれによって初めて精神を象徴するものとして出来上る。
形から精神に入ることも、もちろん可能であるし、またある程度まではそうなくてはならぬが、形からするものはどうも形にとらえられやすい、そしてその形たらしめるゆえんのものに触れえぬおそれがある」
というのであります。
形を学ぶことから入ってゆくことは、何の道においても同じ事でありましょう。
芸事、習い事みなそうであります。
お茶であれば、お茶の形をしっかりと身につけるように稽古をします。
武道などでも同じです。形を身につけることがまず大切であります。
しかしながら、これが形にとらわれるということにもなりかねません。
形にとらわれてしまって、その精神を失うようなことになれば、本末転倒も甚だしいものです。
そこで大拙先生は、
「形を十分に了解して、しかもそれにとらわれず、その精神の動くままに動くことができると、形は形だけでなく、生きたものとなって、見る者に迫ってくる」
と仰せになっています。
更に
「これが東洋芸術の長所である。
ある場合では、精神というものが強調むしろ誇張せられて、形のほうが忘れられることもないではないが、元来が精神と形とは別別ではなくして、精神のあるところには、必ずそれを表現させる形がなくてはならず、形のあるところには、その形を活かしてゆく精神があるものである」
と指摘されていて、形を生かす精神が無くてはならないのです。
「それゆえに、どちらがどちらというわけにはゆかないが、われわれは形と心とを共に把握して、そこに二つのものの渾然たる一を見なくてはならない」
というのです。
いつもながら、大拙先生の指摘は一一まことにごもっともであります。
そして「この一ということがすなわち三昧である、無念である、絶対の現在である」と示されています。
その形と精神が一つになったところが、
「それをまた莫妄想という。
莫妄想とは、妄想なしにおれということであるが、妄想がなければ、それが正受で、三昧で、一念で、無念である」
といって、三昧、無念ということの本質を示してくれています。
私たちの禅の修行では、形を尊びます。形を学ぶことから入るので当然なのです。
しかしながら、形を学ぶことばかりにとらわれて、その精神が疎かになっていることがありはしないかと常に反省しています。
その良い例が、食事の作法であります。
実に丁寧な細やかな素晴らしい食事作法という形ができあがっています。
ところが、今日は、その形を学んで、形通りに行うことばかりに心をとられてしまって、肝心の食をいただく精神が失われていたのではないかと思います。
そこで、形を離れて、しっかりと食事を感謝して味わうことに力を入れています。
そのために、今回も二十日から大摂心を行っていますが、中日には一日断食にしました。
食をやめて、食をしみじみと考えてみるのです。
断食の次の日は、捕食といって、お粥か雑炊など軽いものだけをいただきます。
そしてもとの食事に戻してゆきます。
一日断食だけでも、その次の日にいただくお粥には、感動するものです。
今まで、ただ口に入れていただけだったのが、そのお粥の香り、お米の味わいが身に染みるものです。
ゆっくりと味わっていただくと、少量で満たされます。
こういう精神をしっかりと取り戻しておいて、そのうえで形を行えば、形と精神とが一つになった、素晴らしい三昧になると思っています。
横田南嶺