かかとで呼吸する
この「真人」と表現したところに臨済禅師の面目があります。
もっとも、「真人」という言葉は、魏晋南北朝時代に漢訳仏典において、「阿羅漢」の訳語としても使われていたそうです。
鈴木大拙先生は、その著『臨済の基本思想』において、
「心と云ひ、性と云ひ、見と云ひ、用と云ひ、知と云ふところに、禅の特性を見よと云ってもよいが、自分の考えでは、臨済の人思想に至りて、これらの寧ろ抽象的なものが具體化して現はれると云ひたいのである」
と書かれています。
同じく大拙先生は、『東洋的な見方』のなかで、
「一無位の真人の意味が深い。
無位とは、階級のないこと、数量ではかられぬこと、対峙的相関性の条件を超脱したということ。
真人には道教的臭味があるが、仏者もよくこの字を使うこともある」
と書かれているように、もとは道教において使われた言葉だったようです。
『荘子』の「大宗師篇」に「真人」についての記述がございます。
『国訳 漢文体系』から、読み下し文を参照してみます。
「何をか真人と謂う。古えの真人は、寡(か)に逆らわず、成を雄(ほこ)らず、士をはからず。然るが若き者は、過(あやま)つも悔いず、当たるも自得せざるなり。然るが若き者は、高きに登るも慄(おそ)れず、水に入るも濡れず、火に入るも熱からず。知の能く道に登仮するや、此くの若し」
というものですが、読み下しだけでは意味が取りにくいと思います。
同じく漢文体系の「通釈」を参考にしてみますと、
「むかしの真人は、失敗にさからいもせず、成功を鼻にもかけず、仕事らしい仕事もしない。
こういうふうだと、しそんでも後悔などせず、うまくいっても得意にならない。
こういうふうだと、高いところに登っても平気だし、水に入っても濡れず、火に入っても火傷をしない。知が道に到達した様子は、こういったものだ」
というのです。
更に『荘子』では、
「古えの真人は、其の寝ぬるや夢みず、その覚むるや憂い無し。其の食は甘からず、其の息は深深たり。真人の息は踵(かかと)を以てし、衆人の息は喉(のど)を以てす。屈服する者は、其の嗌言(えきげん)哇(あい)するが若(ごと)く、其の耆欲(しよく)深き者は、其の天機浅し」
と説かれています。
こちらも漢文体系の「通釈」を参照します。
「昔の真人は、眠っているときには夢を見ず、起きているときには心配がなかった、うまい物を食べるわけでなく、呼吸はゆったりとしている。
真人は踵で呼吸し、衆人は咽喉で呼吸する。
人の議論に屈服しないものは、咽喉から出る言葉があたかも咽喉につかえた物を吐き出すように出てくるし、欲の深いものは、心の働きが浅い」
ここに説かれている「真人」というのが、『荘子』において理想の人物であり、道教の目指すところでもあるのでしょう。
たしかに素晴らしい人物像であります。
「士をはからず」というのが解釈の難しいところで、講談社学術文庫の訳では、
「万事をあるがままに任せて思慮をめぐらすことがなかった」となっています。
とりわけ、「真人の呼吸は踵を以てす」の一言は、白隠禅師もよく引用されています。
「其の息は深々たり」という様子を表しているのです。
喉で息をするのでもなく、胸で息をするのでもなく、腹式呼吸というものでもなく、もっと身体の奥深くまで息をして、踵まで達するというのです。
一歩一歩静かに歩いていると、この踵で呼吸していることが味わえるようになります。
しかしながら、『臨済録』で説かれる真人はこういう理想の人物ではありません。
今この生身の身体に生きてはたらいているものにほかなりません。
「心法無形(むぎよう)、十方に通貫す」というものであり、
それは「眼(まなこ)に在っては見と曰い、耳に在っては聞(もん)と曰い、鼻に在っては香(か)を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しつそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す」
というように、常にはたらいているものです。
遠い目標とする人物像ではなくて、今現にはたらいているものであります。
横田南嶺