三密
私もお名前だけは存じ上げていました。
『名僧いんたびゅう~ポスト飽食の時代[考]~』という産経新聞社編の本があって、足立大進老師がその本に出られていたのでした。
私が僧堂で修行していた頃で、今から二十七年前の本であります。
その本の中に当時須磨寺の管長であった小池義人和上も出ておられたのでした。
そんな本の話をしたことがご縁になって、小池さんが義人和上の著書『仏教という道標』を送ってくださいました。
小池義人和上というお方は、第二次大戦後、昭和二五年に帰国されるまで、シベリヤに抑留されていたという経験を持っておられます。
そんな命の危機に遭いながら、生還された体験があるからか、布教にご熱心な方だというのが、その本の短いインタビューからも伝わりました。
そして、長年にわたってテレフォン法話をなさっていたというのです。
これは今も須磨寺で続いているそうです。
その三分のテレフォン法話の内容をまとめたのが、『仏教という道標』であります。
分かりやすい内容で、しかも短い話が集められているので、机辺に置いておくと、手軽に読むことができます。
読んでいると、弘法大師の『秘蔵宝鑰』の一文が目にとまりました。
「夫れ禿(かむろ)なる樹、定んで禿(かむろ)にあらず。
春にあうときは栄え華咲く。
かさなれる氷、なんぞかならずしも氷ならん。
夏にいるときは則ちとけ注ぐ」
という文章です。
「葉の落ちた木は必ずしも枯木ではない、春になれば芽を吹く」のです。
厚い氷が張っても、ずっと氷っているわけではなく、やがて夏になれば溶けてしまっているのです。
「物に定まれる性なし。人なんぞ常に悪ならん。
縁に遇うときはすなわち庸愚も大道を庶幾(こいねが)い、教に順ずるときは、すなわち凡夫も賢聖に斉しからんと思う。
羝羊自性なし、愚童もまた愚にあらず」
と弘法大師が述べておられます。
これを小池義人和上が解説して、
「要するに、人というものはいろいろな可能性を内に秘めているものだから、見かけだけで判断してはならない、ということです。
他人がどんなに愚か者や悪者に見えても、何かの縁で立ち直って立派な人になるかも知れないのだから、その人を軽蔑してはならないということですし、また、これを我が身にあてはめれば、自分だっていろいろな可能性をもっているのだから、仮に今が不幸不運だと思えても、必ずしも悲観したり、絶望したりする必要はない、いつか時が来たり縁があれば、また、芽をふくこともあるのだから、希望を失ってはならない」
と説いてくださっています。
なるほどその通り、よきご縁に逢うことによって、人はいつでも変わることができるのです。
更に読み進めると、真言宗の大切な教義である「即身成仏」について解説されていました。
これは「つまり、私たちは自分のこの体このままで仏になれるということ」だそうです。
禅では、「即心是仏」と説きますが、真言宗では「即身成仏」なのです。
「では、どうすればよいのか」
小池和上は
「それには「三密修行」が必要です」と説かれます。
私たちには「三つの働き」があるといいまして、
「手足を動かす体の働きと、言葉を喋るという口の働きと、ものごとを考える心の働きという三つ」だそうです。
これを「身業・口業・意業」と言います。
この三つのはたらきを仏さまのはたらきに合わせるのが「三密修行」です。
「仏さまが合掌していらっしゃれば私たちも合掌を、仏さまが右手を挙げていらっしゃれば私たちも右手を挙げるという具合に、仏さまの姿形・動きに私たちも合わす。
仏さまの言葉はお経ですから、私たちがお経を唱えれば、仏さまの口の働きに合わせたことになる。
最後に、仏さまの心は涅槃寂静、澄み切った落ち着いた心ですから、私たちの心もこれに合わす。
この場合、仏さまと向き合って「入我我入」を試みます。
仏さまが自分の体の中へ入って来てくださり、自分が仏さまの体の中へ入って行くという相互作用を心の中で繰り返すのです。
やがて自分と仏さまとが渾然として一つになれたような境地になれます。
これが「三密修行」です」
と親切に説かれています。
これを継続してゆくとやがては、真に仏さまと一体になるのです。
もともとは大切な修行であった、「三密修行」ですが、まさか令和に時代になって、「三密」がこれほどまでに「悪役」になってしまうとは、仏さまもご存じではなかったことと察します。
なかなか、仏さまと一つになるとまではゆかずとも、せめて、身体で人に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせていないか、言葉で人を傷つけていないか、心に悪意を抱いていないか、常に反省しなればならないと思います。
横田南嶺