乾屎橛(かんしけつ)
岩波文庫の『臨済録』にある現代語訳を見ますと
「この肉体に無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!見よ!」
というのであります。
そのあとに、
「その時、一人の僧が進み出て問うた、「その無位の真人とは、いったい何者ですか」
師は席を下りて、僧の胸倉をつかまえて言った、「さあ言え! さあ言え!」
その僧はもたついた。師は僧を突き放して、
「なんと(見事な)カチカチの糞の棒だ!」と言うと、そのまま居間に帰った」
というのであります。
原文は難しいのですが、
「上堂。云く、
「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。
時に僧あり、出て問う、「如何なるか是れ無位の真人」。
師禅床を下がって把住して云く、「道え道え」。
その僧擬議す。師托開して、「無位の真人是れ什麼の乾屎屎橛ぞ」と云って便ち方丈に帰る」。
というものです。
難しいのですけれども、漢文の持っている言葉の響きが素晴らしので、是非とも漢文でも読んで欲しいところです。
「その僧擬議す」というところを、岩波文庫では、「その僧はもたついた」となっていますが、「擬」は、「欲」の意味の口語で、「~しようとする」という意味であることが最近指摘されています。
そこで、「僧が何か言おうとしたところをすかさず」と訳するのがよろしいようです。
たしかにその方が、問答の緊迫感が強まります。
無位の真人とは、何の位階にも属さない真の人です。
この身に、どんな地位にも名誉にも財産の有る無しにも学歴にも男女という枠にもおさまらない、汚されることのない真の自己がいるというのです。
その真の自己とは、常に眼にあっては見るはたらきとし、耳にあっては聞こえるというはたらきをし、鼻にあっては香りを嗅ぐというはたらきをし、口にあっては語るというはたらきをし、足にあっては歩き走るというはたらきをしているのです。
そのことを自覚できていない修行僧に対して、臨済禅師は、無位の真人の生きたはたらきを存分に示してくださったのであります。
この問答を鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』の中でこの説法を評して、
「いかにもきびきびして生きている。千年後の今日でもこれを読むと寒毛卓豎する」と語っておられます。
更に、「説法といってもただこれだけの所作にほかならぬ。臨済の一挙一動、一言一句、なんらの無駄もない。一々大事な急所を押えている」と説かれています。
大拙先生は、
「真人は概念世界の存在でない。
言語文字の範疇でとらえられるものでない。
臨済は問者のまごつくを見ると、たまらぬ思いがする。
直ちに突き放して「この乾屎橛」と、いかにもはき出すようである。
何だか口ぎたなく、乱暴のように感ぜられるが、臨済の方から見ると、全体作用である。
真人まる出しである。
いかにも気持ちよい。すっとする。
このような説法は古今無類、東西独歩、実に禅僧のひとり舞台といわなくてはならぬ。
最後に「帰方丈」と記してある。颱風一過の感がある」
と賞賛されているということを紹介したのでした。
何度読んでも、臨済禅師のお説法も素晴らしく、大拙先生の解説も素晴らしいものです。
この文章を読まれた方からお手紙をいただきました。
この文章を読んで、森信三先生の『修身教授録』の一節を思い出したというのです。
『修身教授録』には、「下学雑話」という文章が添えられています。
これがまた奥深いもので、『修身教授録』を読む楽しみの一つです。
『修身教授録』第二部、第二十四講の「下学雑話」に、
「何事にてもあれ、大切なるは根本の態度なり。
弓道の学習は的中よりも姿勢を尚ぶ。
態度すでに確立する上は、「仏とは何ぞや」との問に対して「乾屎橛」(糞かきべら)と答うるもまた可なり。
如実に内容を知れるものは、如何なる定義をも下し得、また如何な定義にても領会するものなり。
されば学において最も大切なるは、その根本態度なり。
ソクラテスの産婆術は、相手の態度の確立を目指す。
真人の生活は、謂わばお多福飴の如し。何処を切るとも、そこにその人が全露呈す」
とあります。
これは、まさしく森先生の炯眼であります。
「乾屎橛」はここに書かれてあるように、かつては糞かきべらと訳されていました。
しかし近年の研究によって、岩波文庫の訳にあるように、「カチカチの糞の棒」だと分かりました。
いずれにしても、無位の真人や仏とは対極にある概念であります。
しかし、ここは大拙先生が指摘されるように、
「何だか口ぎたなく、乱暴のように感ぜられるが、臨済の方から見ると、全体作用である。
真人まる出しである」
まさしく無位の真人が顕わになっているのです。
真人、すなわち仏を自覚した者には、その一挙手一投足に、一言半句に無位の真人、仏はまる出しになっているのです。
お多福飴とは面白い喩えです。金太郎飴という喩えを私も使ったことがあります。
森先生が重視される「根本態度」とは、臨済禅師の説かれる「信」に近いと思います。
自己の心こそが仏であり、それは日常のいかなる活動にも現れているのだという確信です。
横田南嶺