無位の真人
先日は、「無位の真人」について講義をしました。
臨済禅師のある時のお説法であります。
岩波文庫の『臨済録』にある現代語訳を参照してみましょう。
「この肉体に無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ!見よ!」
というのであります。
無位の真人とは、何の位階にも属さない真の人です。
相国寺僧堂の師家であられた田中芳州老師は、
「この身に地位・名誉・財産・学歴・男女などに汚れない「主人公」がいる。
あなたにも、誰の中にも、その人の「主人公」がまぎれもなく住んでいる」と示されました。
どんな地位にも名誉にも財産の有る無しにも学歴にも男女という枠にもおさまらない、汚されることのない真の自己であります。
それが顔から出入りしていると説かれていますが、顔には、目耳鼻口という感覚器官が具わっています。
無位の真人というのは、常に眼にあっては見るはたらきとし、耳にあっては聞こえるというはたらきをし、鼻にあっては香りを嗅ぐというはたらきをし、口にあっては語るというはたらきをし、足にあっては歩き走るというはたらきをしているのです。
「無位の真人」とは、実にお互いの心であり、その心というのは、お互いの感覚器官の活動に現われています、
つまりは活動している生身の人間のことに他なりません。
しかもその心は、この小さな身体の中にだけ収まっているものでもありません。
臨済禅師は、「心は姿形が無く、十方世界を貫いている」と説かれていますように、この世界に満ちあふれているのであります。
その世界いっぱいに満ちあふれた心が、この身体を通して働いています。
そして、その心こそが仏であり、その身体を通して働くまるごと全体が仏の現れだと説くのであります。
臨済禅師は、「まだこれを認めていない者は、さあとくと見よ!」と迫ります。
修行僧のなかから、一人が出来て問いました。
「その無位の真人とは、いったい何者ですか」と。
臨済禅師は、席から下りて、僧の胸ぐらをつかまえて言いました。
「さあ言え!さあ言え!」と。
その僧が何か言おうとすると、臨済禅師は突き放して、
「無位の真人が何たるカチカチの屎棒か!」と言って、方丈へ帰ってしまいました。
鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』の中でこの説法を評して、
「いかにもきびきびして生きている。千年後の今日でもこれを読むと寒毛卓豎する」と語っておられます。
更に、「説法といってもただこれだけの所作にほかならぬ。臨済の一挙一動、一言一句、なんらの無駄もない。一々大事な急所を押えている」と説かれています。
大拙先生は、
「真人は概念世界の存在でない。
言語文字の範疇でとらえられるものでない。
臨済は問者のまごつくを見ると、たまらぬ思いがする。
直ちに突き放して「この乾屎橛」と、いかにもはき出すようである。
何だか口ぎたなく、乱暴のように感ぜられるが、臨済の方から見ると、全体作用である。
真人まる出しである。
いかにも気持ちよい。すっとする。
このような説法は古今無類、東西独歩、実に禅僧のひとり舞台といわなくてはならぬ。
最後に「帰方丈」と記してある。颱風一過の感がある」
と賞賛されています。
全く無駄のない臨済禅師のきびきびした応対にも、無位の真人が生き生きと現れているのです。
大拙先生は
「宗教の要求するのは、真の人である。
おひなさまを飾ったのでは活きていない、いかに美しくても手の届かぬ客観的幻影の世界にすわりこんでいては何にもならぬ。
活潑潑地の真人そのものでなくてはならぬ」
と示しています。
己の心こそが仏である、そしてこの生身の生きた活動に仏がありありと現れていると自ら確信するところから、このようなはたらきが出て来ます。
逆に信じ切れないと、沈んでしまったり落ち込んだり、しおれてしまうことになります。臨済禅師はそんな状態になることを嫌ったのです。
臨済禅師の教えは、この真の自己、即ち無位の真人に目覚め、どんな処にあっても自ら主体性をもって、生き生きと働いてゆくことにあります。
横田南嶺