仏は是れ煩悩
普通はどう考えても、煩悩を除いて仏になるのだと思われます。
煩悩にまみれていてはいけないと考えるものです。
大乗仏教には「煩悩即菩提」という言葉もありますが、「仏は是れ煩悩」とは、理解し難いものです。
そこで、僧が趙州和尚に質問しました。
仏はいったい誰の為に煩悩するのですかと。
趙州和尚は答えました。
一切の人の為に煩悩するのだと。
ではどうしたら、煩悩から免れることができるのでしょうかと問う僧に対して、趙州和尚は、免れてどうしようというのだと答えています。
この一切の人の為に煩悩する心、これが仏の心であり、この煩悩から流れ出るはたらきが、「四弘誓願」であると、鈴木大拙先生は『金剛経の禅・禅への道』の中で説かれています。
四弘誓願とは、
衆生無辺誓願度
煩悩無盡誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
の四句であります。
どういう意味かというと、
「悩み苦しむ人は限り無いけれども、誓ってすくおうと願い、
次に煩悩は尽きることないけれども、誓って断ち切ってゆこうと願い、
教えを無量であるが誓って学んでゆこうと願い、
仏道はこの上ないものだけれども、誓って成し遂げてゆこうと願う」の四つの願いです。
大拙先生は、
「これが仏の「煩悩」である、誓願である、人格のはたらきの細目である。
この誓願のないところには宗教はない。宗教というのはすなわちこの誓願である」と仰せになっています。
更に大拙先生は、趙州和尚と婆子の問答を取り上げています。
「悩み苦しみ多い自分がどうしたら救われるでしょうか」と問う婆子に、趙州和尚は、
「願わくは、一切の人の天に生まれんことを、願わくは婆子の永く苦海に沈まんことを」と答えています。
一切の人の天に生まれんことを願い、自分だけは地獄に沈淪してもいとわぬという大誓願を説かれています。
大拙先生は、この大誓願を、「大宗教家にして初めて体験し、実践し能うところのものである」として、
「仏教の哲学も、ひたすらにこの誓願心を、知性の上から闡明せんとする企てにすぎぬ。禅の問答・葛藤もまた、もとより大いにしかりというべきである」
と指摘されているのです。
折しも臨済会で発行している『法光』の正月号に、臨済会会長であり平林寺僧堂師家である松竹寛山老師が、「新年によせて」という文章のなかで、四弘誓願文を説いてくださっています。
衆生無辺誓願度(衆生の数は限りないけれども、誓って彼岸に渡します)
煩悩無尽誓願断(煩悩は尽きないけれども、誓って断ち切ります)
法門無量誓願学(仏の教えは量りないけれども、誓って学びます)
仏道無上誓願成(仏道は終わりないけれども、誓って成就します)
この四句をそれぞれ易しく
「人に尽くす
自己を正す
道理を学ぶ
仏道を歩む」
と松竹老師は説いてくださっています。
そして、自ら主人公と喚び自ら答えていた瑞巌和尚にならって、この四弘誓願を自分自身に問いかけて答えるのだと説いています。
「主人公よ、人のために尽くしているか」
「ハイ」
「主人公よ、自己を正しているか」
「ハイ」
「主人公よ、道理を学んでいるか」
「ハイ」
「主人公よ、仏道を歩んでいるか」
「ハイ」
という具合です。
こうして、人の為にという「煩悩」をどこまでも実践してゆくのであります。
横田南嶺