あれこれ考える
教堂というホールに、それこそ補助椅子を出して、二階席に到るまで満席でありました。
この「満席」というのは、有り難いものです。
よく「満員御礼」という言葉がありますが、よくわかります。
ところが、只今は、学生のみしか講義を受けることはできません。
しかも三密を避けるために、数十名の受講生のために、五百名入る大教室を用いているのです。
いわゆる「ガラガラ」の状態であります。
この「ガラガラ」が、今の時期に於いては、感染症対策として大事なことであり、学生さんたちのことを慮ってのことなのです。
ということは十分に分かっていても、私など今まで、「満席」になれてしまっていましたので、目の前が「ガラガラ」というのは、複雑な思いをしてしまいます。
そんな事を考えることはない、目の前の一人に対して話をするのだと自ら言い聞かせて講義をしてきました。
「ただ」講義をすればいいだけであるのに、「満席」がよかった、「がらがら」ではなどと、とかくお互いは、「あれこれ」と考えてしまうものであります。
そのまた、「あれこれ」考えることの多くは、たいして意味のないことであります。
「満席」だろうが「ガラガラ」だろうが、これなどは全くどうでもよいことです。
どうでもよいと分かったら、さっさと「あれこれ」考えることをやめるのです。
講義では、「驢事馬事」の話に続いて、大珠慧海と源律師との問答を紹介しました。
これも鈴木大拙先生の、『禅の思想』の第二章禅行為にある禅問答です。
馬祖のお弟子である大珠和尚に、源律師という方が聞きました。
「和尚は、修行するのに、何か工夫をしているのですか」と。
大珠は答えました。
「工夫している」
「ではどのような工夫をしているのですか」
と問われて、大珠は、
「飢え来たれば飯を喫し、
困じ来たれば即ち眠る」
と答えました。
お腹が空いたらご飯を食べ、くたびれたら眠るということです。
そう言われて源律師は、
「そんなことなら、誰でもやっています。世間の人と変わらないではないですか」と問います。
大珠は答えました。
「世間の人とは同じではない」と。
「どうして同じではないのですか」と問われて、大珠は、
「世間の人は、ご飯を食べる時に、ただ食べずにあれこれ考えて食べている。眠る時にも、サッと眠らずにあれこれと考えている、ここが同じではないところだ」
と答えました。
そう言われて律師も何も言えなかったという問答です。
ご飯を食べながら、何か他のことを考えたり行ったりしてしまいます。
かつてはよく新聞を見ながらご飯を食べたり、テレビを見ながらご飯を食べたりして、行儀が悪いなどと言われていたものです。
この頃ですと、なんといってもスマートフォンを見ながらご飯食べたりしてしまうのでしょう。
「あれこれ考えず」に、ただご飯を食べるということは簡単のようで難しいものです。
そんな問答を紹介して、最後に
時は今
ところあしもと
そのことに
打ちこむ命
永遠のみいのち
という椎尾弁匡僧正の和歌を紹介しました。
今、ここ、目の前のことにただ打ちこむ、その命こそ、浄土門でいう阿弥陀さまです。臨済禅師の説かれた無位の真人です。
禅では、「なりきる」と言います。
今やっているそのことになりきるというのです。
ご飯をいただく時には、ご飯を食べることになりきるのです。
私の講義は、第二時限なので、十二時十分に終わります。
今回も十分早く終えて、このあとの食事にはしっかりと集中して食べて欲しいとお話しました。
スマートフォンを見ずに、食べるようにしましょうと、学生さんたちに話をしたのですが、その後、総長室で私自身お弁当をいただいていると、鎌倉から連絡が入るし、大学の事務の方とあれこれ打ち合わせをするなどで、気がつけば、私自身が、そのことになりきっていないのでした。
深く反省しています。
横田南嶺